「誰が一番か」 名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基 先日、スイッチを入れたテレビからこんな台詞が聞こえ、見入ってしまった。今は不公平が当たり前、だから、人から買ったものを他者に倍の金で売って儲けても、何も悪くない、こんな世の中で生き残るにはそれしかないんだ。それは、敗戦直後の闇市で商売しあくどく儲けていることを「不公平だ」と非難された人の言いぐさだった。彼は、続けて、今の世の不公平の例を挙げた。戦争に行って、死んだ者と無事だった者、抑留された人と帰ってきた人、空襲で焼かれた人とそうでない人たちがいるではないか。それを聞いて、彼を非難していた人たちは押し黙るしかなかった。彼らは商売人を不公平と詰ったけれど、言われてみれば、自分達が幸運に預かっていて、不運な人たちから見れば不公平と非難されることに気づいたから黙ってしまったのではないか。 この世は確かに不公平だ。誰かが儲けて、誰かは損する。誰かが勝てば、誰かは負ける。小学生のとき、私は足が遅いので、いつも、運動会ではビリの手前になって恥をかき、一等賞になった子を恨んだりした。しかし、同時に、私より遅れた子がいたのでまだ良かったと自分を説得していた。考えて見れば、ビリの子も私を恨んだかもしれない。私は彼の上に立ってしか体面を保てなかった。だから、その闇市の商売人のようにこの世を生き残って行くには他者を損させ、不平等、差別してもしかたがないとの意見を認めるしかないのだろうか。けれど、それは、深刻な不平等、不利益を受けていない人の意見だ。私のは駆けっこが遅いだけのことで、努力次第では早く走れるかもしれない、本当にささいなことだ。しかし、世の中では、ある違いだけで生死さえ奪われる深刻な不公平、差別が多くある。日本の国内に限っても、耳新しいところでは、障害者の強制不妊手術、官公庁の同雇用数偽装問題、医大入試での女性差別、など。それら国家的・構造的差別は受けた人たちの存在そのものの否定、排除でしかない。また、シリアを始めアフリカ、中南米などからの難民たち、紛争、暴力、貧困から逃れ、安住の地を求めて必死に旅している人々への各国の対応も然りだ。彼ら・彼女らの憤り、悲しみ、失望は如何ほど大きいだろうか。私のビリ争いで恥をかいたぐらいのこととは雲泥の差だ。 どうして、人は他者を不公平に差別するのだろうか。私の駆けっこのように人の上に立ち金力、権力、名誉欲、などで、一番となり、威張りたいからだろうか。差別は5000年前の古代オリエント世界の以前からあった。ピラミッド型の王を頂点とする国家のあるところはそうであった。人間の大多数は王の奴隷、単なる労働力でしかなかった。そんな世界で、「いや、人は奴隷ではない、平等だ。」との人権宣言を掲げ、共同体を創り始めた人々がいた。ヘブライと言われた最底辺の社会層の人たちだ。羊やヤギを飼育する遊牧民や奴隷、傭兵、逃亡者などの人たち、彼らは奴隷として差別されてきた苦難の体験から、奴隷のない社会を創ろうとしたのだろう。しかし、やがて、古代イスラエル人は周辺と同じく王を戴く国家とし、支配者と被支配者の差別社会にした。結果、大国の侵略を受け滅亡した。彼らは始めに戻り、再び、奴隷のいない理想社会を創るにはどうすればよいかと考え、法、掟、生き方としてまとめ人々に言い聞かせた。その中で繰り返し、寄留者・寡婦・孤児を大切にし、配慮しなさいと勧められている(申10・17-19、他)。なぜなら、あなたがたもかって、奴隷であったが今や、土地も畑、家族が与えられているから、と理由が述べられている(申5・10-13)。イエスの弟子たちが、誰が一番偉いかと論じ合ったとき、イエスは「最期の人、仕える人、子どものような人を受け入れる人」が一番偉いと教えた(マルコ9・33-37)。つまり、不平等、不公平に扱われている人たちの悲しみ、苦しみに目を留め、差別のない世界へといっしょに歩む道に、イエスは弟子たちを招かれたのではないだろうか。 どうか、みなさま、来る2019年をダルクにて薬物依存症のリハビリに励み、夢の実現に向かっている彼・彼女たちといっしょに、依存症が正しく理解され、差別されず、依存症者のいない社会になるよう歩む年にしませんか。 あらためて、みなさまのご理解とご協力をお願い致します。 2018年中に頂いたみなさまの優しき心に感謝し、御礼の言葉に代えさせていただきます。 |