「メアリーと魔女の花」

名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基


  機会あって、映画『メアリーと魔女の花』を観た。魔女の花を手に入れた者は無限の力を得るのでそれを獲得しようとする魔女との争いを描いた物語だ。力を得た者は更に強い、絶対的な力を得ることに取りつかれる。しかし、その力は有限な存在には制御できず、破滅させられる、と言うメッセージだった。権力や富に虜となった人々の末路を『平家物語』は諸行無常、盛者必衰の理と言い、歴史は証明している。21世紀の今も常に繰り返されているが、何故か、人間は学ばないのだろうか。と言うのは、今日、99%を犠牲にする多国籍企業や核エネルギーに取りつかれた現代の原子力村や国民を無視して暴走するアベ政権が権力や富に取りつかれていることは明白からだ。これは何も国家や企業間だけでなく、個人間の場合でも隣より金持ち、出世したいとの欲望が、争いと分裂、犯罪を生みだしている。

 新約聖書のマタイ福音書にイエスが「試みる者」(日本語訳では悪魔。)から誘惑を受けた物語がある。(マタイ4・1−11)その「試みる者」はイエスを次の言葉で誘惑する。即ち、「神の子」なら石をパンに変えろ、屋根から飛び降りてみよと。「神の子」を通俗的に理解し自惚れているなら、その力を見せつけたがるだろう。「試みる者」はそれを衝いたのだ。しかし、イエスは「神の子」であるとは何者かを心得ていた。即ち、「神の言葉を聴き」「神を試さない」者であること、人間の有限さと神の利用不可能であることを。イエスが引っ掛からないのに業を煮やした「試みる者」は切り札を出した。「神」「神の子」であるとは宇宙、全世界の支配者であるはず、すべての被造物がその前に膝を屈める存在のこと。だから、目の前に広がる全世界は、当然、お前のものだ。お前は誰からも讃えられ敬われるのだ。「試みる者」はそれに相応しい名誉と地位を与えよう、と言う。ただし、自分に仕えるならと条件をつけたのだ。崇められて当然と考える通俗的「神」であるなら喉から手が出るほどそれを欲するだろう。しかし、「試みる者」の意図は「神」の正体を明らかにすることであった。つまり、全世界を支配し、地位と名誉を得るとは「試みる者」に仕えることに他ならない、神とは畢竟、「悪魔」に仕える者でしかない者なのだ、と「試みる者」は「神」の正体を暴きたかったのであった。それに対し、イエスは引っ掛からなかった。「神にのみ仕えよ」ときっぱり拒絶し、ついに、彼を退散させた。

 それでは、イエスにとって仕える「神」とは何か。イエスは約2000年前パレスティナのガリラヤ地方で貧しいひと、飢えた者、病気の人、路上で暮らす人々の間で、彼らの人生が幸いになるよう尽力された。彼らに重荷を負わせ、生活を苦難にする政治経済、宗教の桎梏から解放しようとした。結果的に、為政者から社会秩序を乱す者として処刑された。このイエスにその人生を歩ませた力を「神」と名付けたのだ。力、富ではなく他者、「低くされた者」の幸いをイエスは求めたのだ。

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