「万緑」 名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基 初夏の今日この頃、緑の美しさに心洗われる。さて、季語の「万緑」の意味は何かと考えたことがあった。見るものすべてが「緑」と言うことなのか、あるいは、「緑」と言っても万の緑があって、それらが一つ、つまり、多様性があるからこそ美しい「緑」と言うことなのか、私は後者かなと思う。 ところで、新約聖書ヨハネ福音書にはイエスを「道であり真理であり命である」(参照ヨハネ14・6)と紹介している。イエスに従おうと集まった人々が、イエスの死後から60〜70年経ったなかで、改めて、師であるイエスが自分たちにとって誰であるかを認識し直したのだ。と言うのはヨハネ福音書の書かれた時期は、ユダヤ教からの会堂追放やローマ皇帝ドミティアヌスによる迫害に晒されていたからだ。同マルコ福音書にはユダヤの対ローマ戦争の敗北に終末を予見し、大混乱の生じることを次のように書かれている。イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。…戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。(中略)そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。』偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。」(マルコ13) ユダヤの人々は先祖から伝えられたメシアと呼ばれる救い主の到来によって苦難からの解放を求めただろう。その叫び声に、「私こそはあなたがたを救うことができるメシアだ」と喧伝する者が多数出て来ただろう。その彼らに、「惑わされるな」とイエスは従う人々に呼びかけた、とマルコは記したのだ。同様に、冒頭のイエスが「道、真理、命」であるとヨハネ福音書の言葉も苦難にあって、あのナザレのイエス、十字架刑に処せられた方にこそ従うべき方とヨハネの共同体に言明しているのだ。 日本をはじめ現代世界では偽りの言葉が、その現状への不満を晴らすかのように罷り通っている。原発事故のアンダーコントロール、積極的平和主義、働き方改革、中国・北朝鮮の脅威、テロ等準備罪と言う名の「共謀罪」、等々、国民の安心・安全を守るためとの甘言が、国民主権、立憲主義、平和主義、人権を破壊する真意を覆い隠している。その情況下、私たちは「何が真理であり、命・人権を守れるのか、そして、何が人生に相応しい価値か」の答を待つのではなく、一人一人が考え見極めて行くことが大切なのではないか。さもなければ、悪夢の戦前に戻るしかないのだ。 「時代が悪い方へと進んでいっても、あきらめてはいけない。あきらめるのが一番いけないことだと思います。こういう時代には、自分で考えることが大事です。“あの人が言っているから”で判断していては危ない。」(赤川次郎) ダルク、薬物依存症者との関わりで私は、世間の意見、答えからではなく当事者との生きる闘いから、何が問題であるかを考えさせられました。弱肉強食、管理社会で個人を大切にしない日本社会にその一因があることを学びました。「世の中をみるときに大事なのは『何が答えか』ではなく『何が問題なのか』です。」(池澤夏樹) どうか、そのダルクの働きが発展して行きますよう、ご理解とご協力を引き続きしていただきますようお願い申し上げます。
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