「幸い」

名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基


  「春」、と聞けば途端に心が明るく軽くなります。まだまだ続く朝晩の寒さに震えてもその気持ちは萎えません。何故でしょうか。宝くじはどうでしょうか。当たらないのが確実なのに、それでも、買えば、当たることを夢見てあれこれしようとわくわくします。つまり、「希望」や「期待」、「夢」を沸かせる言葉は人を明るくさせ、前向きに生きようとさせるのではないでしょうか。しかし、現世界の指導者には人々の不安、分断、対立を煽り、暴力や憎悪を助長する言表を発している者が目立つようになりました。貧しい人々はより貧しくさせられています。

 他方、死の陰を歩んでいた人々に希望を与え、立ち上がらせた人がいました。今から約2000年前、パレスチナに生きたナザレのイエスです。彼は「幸い!」を連発しました。当時、ナザレのあるガリラヤ地方はローマ帝国の直轄領として圧制と搾取を受けていました。

幸い、貧しい者。
幸い、飢えた者。
幸い、泣く人。(参照ルカ6・20、21)

 多くの農民は土地を借金のかたとして奪われ、農業奴隷としてしか生きる術がありませんでした。多くは流民化し飢え、病み、裸でした。救済すべきユダヤ教はローマとの妥協ばかりで安定を第一とし、彼・彼女に手を貸すどころか、膨大煩雑な掟の遵守を強いて、守れない彼・彼女らを「呪われた者」「罪人」と呼んで排除・差別していました。農民たちの惨状を示すイエスの言葉があります。 「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ5・38−42)

 日常的な暴力に晒されている農民たちにイエスは「無抵抗。非暴力」を呼びかけています。さもないと、ローマ軍による大虐殺を招くことになるからです。2000年後の現在、シリアや対テロリストには報復の名のもとで行われています。しかし、暴力を受けている農民たちには受け入れがたい言葉です。こうして、暴力の連鎖は続くのでしょうか。

 この過酷な状況の農民たちにイエスは「幸い!」と呼びかけるのです。これまたトンデモない言葉です。暴力を受け、人権・生命を無視され虫けらのように殺され、捨てられる人々に向かって発せられる言葉でしょうか。かって、極貧の人の無数にいるインドの人にとってイエスの福音は何かと尋ねたとき、神父が「貧しい者は幸い」と答えられたことを思い出します。未だに、真意はつかめていませんが。

 イエスと出会った農民たちの中に、イエスの関わりを神の業として「病人癒し」の伝承を数多く残していることから、立ち上がり、前向きに生きた彼・彼女らがいたことが推測されます。その出来事を「幸い!」と表現しているかもしれません。

 ダルクは『薬中』の希望と夢を与える場所です。薬物依存から回復し、夢の実現に向かうステップです。どうか、みなさま、その働きが『薬中』の仲間にもっと届きますよう、ご協力とご理解いただきますようお願いいたします。


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