「禁断の木の実」 名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基 聖書のいわゆるアダムとエヴァの失楽園物語(創世記2,3章)は、紀元前10世紀頃、古代イスラエルで書かれたが、21世紀の現代人の私たちにも問い掛けているのではないか。 何故、アダムとエヴァは楽園から追放されたのか。以前は、神が人間に一方的な命令を与えておいて、人間が破ったからと罰するのは何と神の勝手ではないかと思っていた。しかし、後日、神と人間の関係は相互の約束であることを学んでからは、神との約束を人間が破ったから、その責任を問われたと思うようになった。神は人と「すべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(同2・16,17)との約束を交わした。一見、神の人への一方的な命令に思われるが、神はまず人にエデンの園という不自由しない(どの木の実も食べられる)生きる場を与えられた。当然、人はエデンでの生き方、即ち、神のその指示(法)を選択しなければならない。人は神の示される生き方に従う選択をした。つまり、神と約束したのだ。それに対し神は人をエデンに住まわせ続ける約束をしたのだった。 あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、 主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、 主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、 主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる。(申6・18、19) しかし、人は従わず、約束を破ったため、「必ず死ぬ」(同2・17)、つまり、神との断絶、園からの追放の責任を取ることとなった。 では、どうして、人は神との約束を破ったのか。生きて行くには十分な場を失うにもかかわらず、それを選んでしまった。まずは善悪の木の実(原文ではすべての知識の意味)とは何かを考えよう。蛇はエヴァに言った、「神のようになる」(同、3・4)と。つまり、それはすべての知識を手に入れられること、全知全能になる、つまり、神になり全権を持つことだ。誰もが全知全能の神になることを人は欲する。私は子どものころから、スーパーマンに憧れて、他者より優れた能力を持って、願わくば人の上に立ち、人を支配し、好きな事を勝手にしたいと望んだように。 その木の実は人を魅了する。「その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた。」(同3・6)しかし、それはエデンの園に住まわせた神の人への思いから外れる。何故なら、神は人を共生する者としてエデンに置かれたのだ。「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(同2・18)「助ける者」との日本語訳は助手、ヘルパーの意味に取られるてしまうが、原語ではパートナーの意味を持つ。つまり、対等、平等としての女性を与えたと言うこと。この話しは人間とは人間集団、社会においてしか生きられないので、その社会において人間相互が幸せとなるには、相互扶助でなければならないとの深い洞察から来ている。従って、誰かが独裁者となって他者を支配する利己主義は相互扶助の否定、社会を壊し、幸いを得られなくするのだ。木の実を食べた人間の顛末が、なすり合い、責任逃れ、分離として書かれている。アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(創3・12) また、利己主義は人間の「自由」について考えさせる。「自由」は人間の基本的人権で、何人も侵してはならないとされる。しかし、人間集団において、即ち、社会に生きるには、「自由」にはある枠組み、つまり、ルール(法)を設け、その成員が互いにが守ることを必要とする。「すべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(同2・16,17)これは、神の人の自由行使への指示、ルールだ。人間には自由があり、尊重しなければならないが、相互扶助を基本とする限りの自由なのだ。それ故、誰かが独裁者になって他者の自由を侵害し奪う利己主義としての自由の行使はゆるされない。この人間観の背景には古代イスラエル周辺のエジプト、メソポタミアの王を頂点とするヒエラルキー社会での人間は王の「奴隷」でしかないと言う思想と、それを模倣して古代イスラエル王国を格差社会にしたソロモン王(優れた知識を持っていると言われた王)への厳しい批判から来ている。 「失楽園」物語は現代人の生き方にも示唆を与える。夫婦間からはじめ家庭、社会、世界での人間関係をどうあるべきか考えさせる。人間の飽くなき欲望の追究、利己主義が、核開発、軍拡競争による戦争・紛争は拡大させ、難民の増大、飢餓貧困、格差の深刻化、等と人間を富利益獲得の奴隷化としている。その結果、温暖化・放射能汚染による地球滅亡へのカウントダウンは始まった。それにもかかわらず、国の指導者たちは目を覚まさず、利益追求の手を緩めるどころか、ますます、拡げ狂気に走っている。我が国日本でも、禁断の木の実である、ナチスヒットラーをまね絶対多数による全権を掌握し、国民の生命・幸福追求権を破壊しようとしている。この流れを止め、人間の平等、幸福を実現するための代替生き方を追求実現しなければならない。それは、憲法9条の戦争放棄、武力不保持とイエスの非暴力、包摂的生き方を学ぶことではないか。 ダルクも「共生」「相互扶助」を追求している一つではないでしょうか。 どうか、みなさま、ダルクと一緒に、人権尊重、世界平和のために働いて行きましょう。ダルクへのご理解とご協力をお願いします。
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