「クリスマス物語」 名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基 毎年、クリスマスが近づくと何となくそわそわ、浮き浮きとなるが、今年は、「大義無き」総選挙も加わり、まさに「師走」、一層心中穏やかでなくなった。 さて、街中彩られクリスマス商戦と言われるように、キリスト教信者が人口の1%もいない日本でさえ、クリスマスは経済界にとって利益を上げる一大イヴェントだ。日本人は無節操と云われる。つまり、 どんな宗教行事をも商売のチャンスとするから。クリスマスの他、正月、節分、バレンタイン、復活祭、お盆、等々。クリスチャンが海苔業界に操られて節分に恵方巻きを買い、その方角に向かって一息で食べることに一喜一憂している。日本人にとって宗教は観念的であって実際の生活には何も影響を及ぼさないので、クリスチャンが正月に初詣しても構わないのだ。しかし、イエスの出身母体であるユダヤ教は生き方と言われる。だから、安息日は仕事をしない。マッチでガスの火すらつけない、と言う。 周知のように、クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日であるが、それは史実ではない。イエスを『キリスト』と信じた教会が、『キリスト』即ち、『神の子』の誕生を物語りとしたのだ。ハリウッド映画でお馴染みの旧約聖書のモーセが海を二つに分けて渇いた所を、エジプトから逃げた奴隷たちが歩いて渡った、と言うのも歴史物語であって、史実ではない。しかし、後のユダヤ人たちはそこに秘められたメッセージを読み解き、生き方の指針としたのであった、と同じように、誕生物語からクリスチャンはメッセージを読み解かねばならない。 イエスの先祖たちはヘブライと言われ、現代での難民であった。そのなかには、羊と山羊を飼う小遊牧民もいた。遊牧民は水と草、他は食と職を求めて移動し続けるので、天候や政治に翻弄され、不安定で苦難に満ちた『死の陰を歩む』人生であった。その彼らが頼りにするのはこの世の支配者、王ではなく、それを超えた絶対者の声であった。(主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。/死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。/あなたがわたしと共にいてくださる。詩編23)何となれば、この世の王たちは富と資源収奪のため他国への侵略戦争、国内にあっては支配者以外を生産奴隷として搾取差別し使い捨てにするばかりであった。この世の王に従う限り、自由のない奴隷として生きるしかないのであった。(何やら、現代世界と同じではないか。)その王を拒否して絶対者に従うのは、「神の前では、人間は自由、平等、独自な存在である。」という人間観を何故か彼らが持ち、それを実現する社会を目指したからだ。(彼らは「神」から啓示された、与えられた、と言う。) クリスマス物語には、ヘブライが登場する。イエスの父ヨゼフ、母マリアである。時の権力によって理不尽な旅を強いられる。村の人々からは宿を断られ、旅先での出産。また、野宿している羊飼いたちだ。彼らの前身は逃亡者、犯罪者、出稼ぎ者であっただろう。その仕事ゆえ「汚れた人=罪人」と呼ばれ、搾取差別されていた。彼らが、この世の支配者に従う限り、翻弄され使い捨てにされるばかり。彼らが人間にふさわしく生きるには、この世を超えた絶対者に従うことではないか。即ち、イエス、神の言葉を生きた人。イエスは「ことば」、絶対者のもとにいた、と言われる(ヨハネ福音書)について行くこと。もちろん、それは安易ではない。世間からは決して歓迎されない生き方となる。「十字架を背負う」とはそれを指す。 クリスマス物語は、私たちが誰に従って生きるのかを、示している。この世の演出する拝金主義的クリスマスに酔うばかりではなく、誰もが大切にされるよう自分の生き方を転換する日にしたい。 どうか、みなさま、新しい年も、薬物依存で苦しんでいる若者たちが回復し、人として生きられるようご理解とご協力をくださいますよう、お願いいたします。 クリスマスと新年のお喜びを申し上げます。
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