「騙される」罪

名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基


  カトリック教会では毎日曜日、ミサ、感謝の祭儀と言われる祝祭が行われる。信者はそれに参加する度に、自分とは何であり、何に向かって歩んで行くべきかを知らされ、それ故に、生きることの喜びと幸いを祝う。カトリック信仰の源である旧約聖書によれば、神と人との関係を「契約」と捉える。すなわち、神(絶対、永遠、究極の価値、等と言い換えられる。)の提示される人間の生き方、人間集団の在り方の指針を守り従って生きることを人が神と約束し、神はその人の約束遵守に対し幸いと命を与えることを人と約束すること。しかし、人は神の言葉よりこの世の言葉、価値の誘惑に負けそれに従い、約束違反をしがちだ。例えば、健康より食い物に負けること。その神への背反を聖書では「罪」と言う。罪の人はそれを悔い改め、もう一度、神との約束に立ち帰ろうとする。その人はミサの初めに、悔い改めの宣言をする。その際、人は次の言葉を唱える。「私は思い、言葉、行い、怠りによって罪を犯しました。」その中の『怠り』は神からの呼びかけに、例えば、困っている人を助けなさい、との呼びかけに「怠けて」無視した、の意味であるが、近年には構造悪への無関心、黙認を『怠り』に含むようになった。例えば、戦争、貧困、暴力、差別、等を解消するための働きをしないこと。つまり、政治的無関心であること。それは、第二次世界大戦や現代世界の諸問題に無力であったカトリック教会の悔い改めた新しい視点であった。また、旧約聖書の「預言者」と呼ばれる人(決して、未来を予想する人、ノストラダムスではない。)やイエスの「悔い改めよ」の叫びが、庶民(当時は95%が貧しい農民)にではなく、為政者、王、祭司、貴族、官僚に向けられていたことの再発見にもよる。

 さて、昨今の日本政治の軍国主義化、金持ち優先・弱者切り捨て政策に対し、「騙される」罪を犯さないようにとの指摘がキリスト者の憲法学者からあった。なるほどと思わされた。先の大戦でもそうであったように、政府の「聖戦」論に国民は騙され「一億総玉砕」に邁進させられたのであった。結局は、皇室、政治家や財閥の身は安泰であったが、生命・財産を奪われたのは庶民でしかなかった。今日でも、直近の消費税増税は社会保障費の財源に使われると言われながらも、結局は、大企業、不要不急の公共事業に回され、他方、社会保障費は削減の一方となった。沖縄の基地負担削減、脱原発も何をか言わんで、「安全」と喧伝し、今や、オスプレイが我が物顔で飛び回り、再稼働推進に躍起となっている。従って、集団自衛権、秘密保護法、等、戦争する国にしたい政府が、いくら「国民の命と暮らしを守る」ためと甘言しても「騙されて」はならない。イラクやウクライナの例を見ても、決して、武力・戦争では争いを解決出来ないばかりか、犠牲者は女、子どもの一般人ばかりであることは自明ではないか。

 カトリック教徒の私たちが、ミサにおいて神と新たな約束を取り交わし、神の示す生き方に従って「新しい人」として生きることを再度、決心をするならば、「騙される罪を」繰り返さない賢明さ、熟慮、識別、勇気、神を畏れること、即ち、「聖霊」と呼ばれるものを育てなければならない。

 ダルク、薬物依存者との関わりもまた世間的見方、政府の見解に「騙される」ことから、神の視点、依存者の立場に寄り添うように、賢明に考え、判断し行動しなさいとの呼びかけではないだろうか。脱法ハーブ問題が顕著になっているように、薬物に依存する人が増えている現代日本社会が「薬」にではなく、人との関わり、共助共存の社会になることを求められているのではないか。

 どうか、みなさま、ダルクへの暖かいご理解とご協力を下さいますよう、お願いいたします。

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特定非営利活動法人 名古屋ダルク 理事 柴 真也


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