「ヒト・モノ・カネ」 名古屋ダルク後援会 代表 竹谷 基 「ヒト・モノ・カネ」とは、グローバル時代を説明するときに、最近よく目にするようになった。例えば、ヒト・モノ・カネが国境をいとも簡単に越えるのがグローバル経済、と言うように。さて、先日、興味ある新聞記事を読んだ。※1 それは、グローバル時代を論じたものであるが、「ヒト・モノ・カネ」の順序についてであった。普通なら、「ヒト・モノ・カネ」の順序で「ヒト」が第一位、最上位の価値に上げられる。けれど、現在のグローバル時代やアベノミクスでは、それが逆転し、「カネ・モノ・ヒト」の順序になった、と言う。即ち、すべて、「カネ」が至上価値となり、「カネ」のため、「モノ」に、「ヒト」が消耗品となっている、と指摘したものであった。 もちろん、それは、グローバル時代の特徴と言わなくても、いつの時代にも見られる、人間の裏面である、が、今日、あからさまに、表だって、大手を振って闊歩しているようになったと私も思う。先日の東京都知事選挙の結果にもそれを見るのは私だけであろうか。ヒトにも地球にも取り返しのつかないダメージを与えた福島第一原発事故以来、ヒトは「脱・原発」を選択したかのように見えた。しかし、犠牲者の苦しみを余所に、「経済成長」「景気回復」「賃金アップ」の掛け声に、政府・財界の原発維持、再稼働に反対の声を上げる人は少ない。都知事選挙は人々の関心がどこにあるのかを知る良い機会であったが、残念ながら、半数以上の棄権と「再稼働」の結果となった。原発の再度の事故があれば、オリンピックどころか日本列島すべてが汚染されてしまうかもしれないのに。やはり、今の日本は「カネ・モノ・ヒト」の順の優先社会なのだ。 安部政権の進める憲法改正、集団自衛権・秘密保護法、等は、「カネ」のためにヒトの生命・人権を軽視し、使い捨てにする。靖国神社はその「国」、つまり、「カネ」に犠牲を強いられた人々を「英霊」と言い換え、祀る施設だから、執拗に政治家たちは参拝し続ける。 E・フロムは人には二通りの生き方があると言った。即ち、「持つ」(=to have)生き方と「ある」(=to be)生き方と言われる。フロムはユダヤ人であるから、その考えは旧約聖書から来ていると思われる。旧約聖書を著わしたヘブライの人々は、当時のピラミッド社会、王を頂点としたヒエラルキー社会で奴隷として生きることを拒否し、「誰もが自由・平等・独自な存在」として生きることを目指し、その社会を創ろうとした。奴隷として生きるとは、自己決定権を奪われること、つまり、人権がないことだ。仕事やパン・家庭を持つことはできるが、強制されている限りでなのだ。例えば、仕事のため、パンのためブラック企業で過労死するまで働かせられること。ヘブライの人たちは言わば、その王制国家から使い捨て、非人間扱いされた「難民」だったが故に、王政ではない平等社会を目指したのであろう。王政拒否とは「カネ」を第一の価値とする肥沃宗教を拒否することにもなる。肥沃宗教は豊かさ、富をもたらすと言われ、商売繁盛の神だ。ヘブライの人たちは、商売繁盛、貪欲、「所有の」神にではなく、共生、分かち合いに導くヤーウェ(=「ある(=to be)」神)に従ったのであった。しかし、彼らは結局、「所有」の神、に戻って、滅ぼされたことを旧約聖書に残した。紀元前6世紀に纏められた旧約聖書は私たちに人間とは「カネ」に囚われたものであることを教える。その500年後、イエスは生まれた。イエスは「カネ」の捕らわれからヒトを解放すべく、貧しい人々との分かち合い、連帯に生きた。つまり、「ある」神に従った。そして、殺された。キリスト者はそのイエスに従おうとする。従って、今日の「カネ・モノ・ヒト」の風潮に対して「ヒト・モノ・カネ」の生き方をして行かねばならない。 ダルクの「薬中」たちも「カネ」に捕らわれた社会の犠牲者であろう。「持つ」生き方の社会では、「弱者」は排除され、捨てられるからだ。 ダルクへの理解・協力は「持つ」ことより「ある」ことの選択につながる。 どうか、みなさま、暖かいご支援を引き続きお願いいたします。 ※1浜 矩子『ヒト・モノ・カネが正しい順序』2014年2月9日中日新聞「視座」
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