「旨い話」

名古屋ダルク後援会 代表 竹谷 基


 聖書に次の話がある。イエスの生涯を試みる者との対決、そして、退けた、と象徴的に描いた、いわゆる、「荒野での悪魔の誘惑」物語だ(マタイ福音書4・1−11)。そこで、試みる者、悪魔と訳されている原語は、「二枚舌」を意味すると言われる。まさに、試みる者のイエスへの誘いは人の弱さをくすぐって、人間の自己充足欲を刺激するまことに巧妙だ。たとえば、第一の誘惑としての「石をパンに変えろ」は、修練鍛錬としての長い期間、断食して空腹を感じていたイエスにとっては、絶妙なタイミングの囁きであった。喉から手が出るほどの飢餓感、そこにつけこんだ誘惑者の声は、更に、イエスの自尊心を傷つけるものであった。彼はイエスに言った、神の子だったら、何をそんなに我慢しているんだ、お前ならいともたやすくパンを手に入れられるだろう、それで腹を満たせばいいじゃないか、と。イエスの周りには、当時の社会構造ゆえに貧しくさせられ、飢えさせられた人々が無数いた。その彼らを見て見ぬふりのできなかったイエスがしたことと言えば、自分のパンを分けたぐらいしかない。試みる者はそんなイエスを、何やってんの、馬鹿じゃない、神の子らしく全能をはっきしたら、飢えた人なんかたちどころに一人もいなくなるんじゃない、と自尊心をくすぐるように揶揄したのだ。

 私たち人間は神を試す。病気や災害から救ってくれ、裕福に、有名に、出世するようにしてくれ、と神を試みる。しかし、願いは叶えられない。すると、神も仏もあるものかと罵詈雑言、挙句の果てに、やめちまえよ、そんな神を信じるのは、と。その悪魔のイエスへの第一の試みは、その人間の神信仰を表しているかもしれない。つまり、都合のいいものだけを信じ、崇める人間の手前勝手さを。悪魔の声は、そんな人間の期待に答えればいいじゃないか、そうすれば、人間はお前を神として奉り、ハレルヤ、ハレルヤと歓呼の声を上げ群がってくるだろう、とイエスに囁くのであった。
人はどこまでも欲求を適えたい。詐欺師たちはその人間の欲求を利用し濡れ手に粟で大金を手にいれるが、欲に駆られた人には破滅しかない。同様に、人類の行き着く先は混乱と破滅であることは、二度の世界大戦、原発事故に見られる環境破壊が示している。それでも、人はともかく目先の利益を、もっともっとと欲しがる。悪魔の「石をパンに変えろ」に従うことはその命と環境を破壊することに人を導くのだ。もちろん、悪魔はそんな破滅に至ることはおくびにも出さない。心地よいことだけ、目の前の飢えが満たされ幸せになることしか言わない。まるで、今の安部政権のようだ。「経済成長」の掛け声は、人々に甘い蜜を与える。しかし、一方では、格差拡大、憲法改悪、戦争、徴兵制と人々の命と暮らしを奪う毒は隠している。まさに、「二枚舌」を地で行くようではないか。人々は権力者の二枚舌を見分けなければ、再度の原発事故、破滅に行き着くしかないだろう。


 その試みにイエスはどう対峙したのか。イエスは言った、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8・3)と。つまり、人は自分の欲求に従って生きるのではない、人を生かす、命と人権を守ることを至上命題とする神の言葉に応えることが人としての生き方なのだ、と言われたのだ。景気回復との心地よい言葉に対し、人を大事にするためには不便苦労を厭わずに暮らして生きよう、との呼びかけがイエスの答えではないだろうか。

 私にとって、ダルク、薬物依存症者との関わりは、二枚舌の罠に掛からないためと考えている。
 どうか、みなさま、ダルクへの変わらないご理解とご協力を賜りますようにお願いいたします。

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