「共に生きる」

加藤 純矢


 2011年3月、東日本大震災によって瞬く間に人々や文化が流され、原子力発電所の爆発の被害が日本を覆いました。私自身、「これからの人生で一体自分に何ができるのか?」という事を考えさせられる年となりました。

 私とダルクとの出逢いは14年前になります。当時繋がって考えていたことは、「早く自由になりたい」という願いでした。自由とはどういう事かもわからずに只自分の思うとおりに生きていけることが自由と思っておりました。自分の力のみを過信していました。人の言う事には耳を傾けずに自分の考えの中生きていました。そして再発を何度と繰り返してました。名古屋ダルクに来させて頂いたのは7年前になります。3ヶ月程薬が止まり始め、プログラムに繋がって長くなりだした時のことです。もうダルクや自助グループの仲間達とは一緒に居たくないと常日頃から思い始め手を離すことを選んでいました。今思えば、生きていくことがどうにもならなくなっていたことでした。仲間の中から離れるとアッという間に病巣が自分に襲いかかってきました。何とかなるだろうと思ってましたが、独りでは何も出来てないことに直面しました。どの様に生きていいのか分からず相談者に連絡をして、彼の言う提案に耳を傾けて再び仲間達の中でプログラムを行いました。悔しかったですし、腹もたちましたし、怒りましたし、笑いもしました。気がつくと薬をやめている期間も続いており、運動やサービスを仲間達と共にしている自分がいました。自己中心的な自分には考えられないことでした。

 そんな中でも再発を繰り返していく仲間、精神病院や刑務所に再び戻っていく仲間、、、沢山のサンプルと出逢いました。年の差や性別等はさまざまでしたが、依存症という病巣についてはどの仲間達とも同じ問題の様に感じました。4年前に名古屋ダルクでのリハビリも終え、名古屋市で仕事をして夜開かれる自助グループに通う毎日でした。一人暮らしをし彼女が出来、その人と結婚をし家庭を持ち始めました。善き理解者の人でもあります。いつも不安や助けが必要な時に周りの仲間達に無償の愛でもって支えて頂きました。ミーティング、サービス、フェローシップと仲間達と生きる選択をしました。

 1年程前にダルクでの仕事の話があり暫く迷いました。その当時から夫婦で子供が欲しいという願いがあり、同時に自分が「次の世代に手渡していきたい事は何だろう?」という事を考え始めました。「どういった父親になりたいのか?」と常日頃から思い、、、会社を興して金をかせぎたい、いい暮らしをしたいなどと妄想してましたが、自分の病巣に向き合っていかないとあっという間に破滅的な生き方を繰り返していくだろうし、大切な家族に対しても同じことをしてしまうだろう?と思いました。15歳から薬物、アルコールと使い始めて依存症に陥り、人に嘘をつき、誤魔化してきた人生でした。これだけが私の取り柄となってますので、この経験を生かしていこうと思い、この仕事に就きたいと思いました。これからの人生で自分にできることは同じ共同体の中で誰かの役に立てればいいと思いました。電卓を叩く人生では無いことを選びました。今年度より名古屋ダルクで働かさせて頂きます。

 そして今年2月8日に第1子の息子「太一」を授かりました。母体は絶え間のない50時間の陣痛を耐え、息子は無事に産まれてきました。出産間近に職場の方々や仲間達より全力のサポートを嫁にしてあげて下さいと温かい言葉をもらい、病室で3日間嫁と共に過ごし出産までになりました。新しい命の誕生は元より、その母体に来る痛みを直面し、まるで新しい仲間が繋がり、その命を支えている家族や地域の方がおられるのと同じ様なことと実感しました。

 
 未だ薬物依存で苦しむ仲間の為にも、ダルクは勿論のこと、周りのお力にも支えて頂きたいとお願いを申し上げると同時にダルクも支えて下さい。まだまだ未熟で皆様に対しても失礼なこともあるかと思いますが、私にできることは惜しみなく努力をし、新しい仲間達や家族と共に生きていきます。これからもご支援ご指導御鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

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