「四人の友だち」

ダルク後援会 代表 竹谷 基


 日本社会では一度、本流から外れると立ち上がることは難しい。病気の人や失業者、犯罪者にセーフティネットやケアはなく、自律する生活のためには障害が高い。私の関わるホームレスの人たちがそれを脱しても、年齢、資格、求職難、等で職につけられないのでやり甲斐のある生活を見つけ始めるのは至難の業だ。にもかかわらず、やっと生活保護を受給して、最低限の生活が保障されると、「働かない」「怠け者」と非難される。今の日本社会は格差の拡がり、自己責任だけ押しつけられ、勝者しか生き残れない。弱者は旧約聖書のヨブのように自分の不運を嘆くしかない。

 新約聖書マルコ福音書には「イエスの中風の人を癒す」と言う物語がある。中風の人は神や社会を嘆き恨みながら家の隅で生きていた。と言うのは、何時何処でもそうだが、因果応報論で病を「罪」によると考え、また、「罪」を汚れとする社会では、病気の人は立ち上がり、人として生きて行くことは出来なかったから。しかし、彼には、唯一、幸いがあった。彼にはその苦しみを訴えられる友だちがいたのだ。友だちは見舞いに来るたびにその嘆きを聞いた。だから、彼らはその病の友人を、近頃、評判になった病気癒しのイエスが村へやって来たことを聞いたので、そこへ何が何でも連れて来たのだ。その四人の友人と病人の必死さはイエスの心を動かした。イエスは病人を「罪人」と呼んで権利を奪い,正当な関わりを持たない社会に向かって、病者は「罪人」なんかじゃない、私たちと同じ仲間だ。彼が希望に向かって立ち上がって前に進めるように手助けすることが私たちの責任ではないか。弱者への暖かい配慮する社会にして行こうじゃないか、と叫ばれた。

 聖書を表したユダヤ教の民は、元々、奴隷などの最底辺のヘブライの人々であった。彼らは奴隷にとどまることをよしとせず、誰もが大切にされる社会、つまり「神の国」を造ろうとした。聖書としてまとめられた神のことば、掟と言われるのはそれを目指す「足の灯火、道の光り」であるから、彼らは守ることが自分たちの生き方であるとした。その教えに生きていた四人の友人、イエスは病人の苦しみを見捨ててはおれなかった。手をのばした、動いたのであった。同じく、マタイ福音書には、聖書の教えはつまるところこれに尽きるとの言葉がある。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしなさい。」マタイはイエスという人をその言葉の体現者として見て取ったのだろう。
 この物語や言葉は、私たちが周りにいる「重荷を負った」人々との関わりを教えている。

 名古屋ダルクは薬物依存症で苦しむ人の友であり、先輩である。名古屋で開所以来、三重、岐阜、三河とダルク設立の手助けをし、今、遠くトルコのイスタンブール、そして、韓国のダルクへ手伝いをしに行っている。薬物依存症の怖さを知っているが故、また、回復の経験がある故に、苦しむ青年たちを見捨てることはできないのだろう。
しかし、それらの活動は名古屋ダルクを支えてくださるみなさまのお陰によるのです。まことに、感謝いたします。みなさまの手がこのように海外にまで拡がっていることは、とても、うれしい限りです。今後とも、名古屋ダルクへのご理解とご支援を引き続きお願いいたします。

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