ダルク後援会代表 竹谷 基 前回、3月のニューズレターを発行してから、日本の状況はガラリと変わった。大震災によって『諸行無常』の言葉が甦った。人は常に死の陰を歩んでいること、目が覚めて起きられることが当たり前ではないこと、まさに、「今、生きている」ということは無条件のプレゼントだ、と言うことを思わされた。そして、生きるとは「生かされている」のであり、だからこそ、相互の支え合いが「生きる」ことに他ならない、と改めて思い至った。被災された方、避難生活を余儀なくされた方たちが一日も早く立ち直られるよう、微力ながら協力して行きたい。 さて、前回、言葉について書いたけれど、震災後、考えさせられることが多い。特に、福島原子力発電所の事故に関して。未だに真相が伝えられない状況で「御用学者」なるものがマスコミで解説して、真実を隠蔽する言葉を発している。あるいは、当初、「想定外」が多用された。自然災害が起きる度、使われるが、責任逃れとしか言いようがない。しかし、学会から批判され下火になってきた。「『2011年3月26日 ... 想定外という言葉を使うとき、専門家としての言い訳や弁解であってはならない』。土木学会など3学会は、こうした内容を盛り込んだ共同緊急声明を発表した。」更に、安全、危機管理とは想定外に対処することであるから、今回はまるっきり怠慢と言われても仕方あるまい。そもそも、原発が「安全」と言うのは今さら神話だと言われるけれど、技術は未確立で、今回のように事故が発生すると取り返しのつかない、未曾有の大惨事が未来永劫続く(チエルノブイリ事故が証明)ことが、分かっていたにもかかわらず、「神話」を言い続け、聞く方は、検証することなく鵜呑みしていたのである。また、1960年に原発事故の補償を免責する法律が作られたことからも、初めから未曾有の事故は想定されていたはず。 「トイレのないマンション」と言われるように、原発から生み出される言わば核のゴミ、死の灰と言われるものの処分法がなく、貯まり続けて膨大な量となって全国の原発から放射能を撒き散らかしているのである。原発事故は今回の事故を受けて、命、健康、家、仕事、財産、土地、故郷、一切を奪われ帰るところを失くした人々のことを思うとき、二度とあってはならないと思うのが普通ではないか。にもかかわらず、国の指導者たちは原発廃止を言い出さず、今なお稼働させているのは何故か。結局、力ある者、富める人たちは人命や人権、環境保護よりも利益優先している亡者である、と言うことなのだろう。 言葉は、力ある者が使えば、「神話」となり、力のない人々を誤った道へと向かわせ、命を奪うことになる。戦争中の「聖戦」、戦後の所得倍増計画、大阪万博の人類の進歩と調和、そして、原発は環境に易しい、安全、等々。私たち力のない者は、乗り遅れるなと地獄へと強制連行される。気付いたら「想定外」と言われるのだ。旧約聖書では、それを偶像崇拝と呼ぶ。自由と平等を目指す理念を捨て、「富と力」の獲得競争、他者犠牲に生きることを。「自由と平等」を目指す、崇高な生き方を示す「言葉」を神と言う。私たちの発する言葉は他者を犠牲にするのではなく、「自由と平等」共生を想定するものでありたい。 ダルクでリハビリする若者たちとの連帯は、「生かされている」ことを互いに気付き合う「想定内」の言葉となるのではないか。引き続き、名古屋ダルクへの支援をお願いする次第です。 |