「こんなはずじゃ」

ダルク後援会代表 竹谷 基


 クリスマスのシーズンになりました。2010年もみなさまの暖かいご理解とご協力により名古屋ダルクは薬物依存症者のリハビリに門戸を開け続けることが出来ました。ここに、篤く御礼申しあげます。

 先日、新聞のコラムに面白い記事を発見しました。「『こんなはずじゃ』違い」というタイトルでした。それはチェンジを掲げて登場した米国のオバマ大統領と日本の民主党政権を比較した話しでした。(中日新聞朝刊。2010年11月7日付け)
私自身も後者の民主党の場合、旧来の自民党政権とは違う日本の舵取りをするのではと、非常に期待していた。けれど、時がたつにつれ、「あれっ?」と言うことが多くなり、なんだ、自民党と同じじゃないか、いや、もっと、悪いのでは、との失望感が強まってきている。前者のオバマ大統領の場合、私は、やはり、その登場には期待と夢を膨らませた。暗い閉塞感を打ち破ってくれるのではないかと。そして、イラク・アフガン戦争等、難問は山積みであるが、核廃絶の発言のように変革は始まっている、と思う。著者の浜 矩子氏は次のように言っている「わが方の民主党の場合には、言っていることとやっていることがどうもチグハグだから、人々に嫌気された。あっちの民主党の場合には言っていることとやっていることがあまりにも一致し過ぎているから、人々の怖気を買った。そういうことではないか。(中略)『こんなはずじゃ…』も、ところ変われば大いに違う。」

 さて、11月も半ばを過ぎると繁華街ではクリスマスのイルミネーションが輝き、クリスマスソングがあちこちから流れて来る。否が応でも、メルヘンチックなクリスマスのムードを高められる。確かに、新約聖書のクリスマス物語はその想像力を駆り立てる。しかし、クリスマス物語を文字通りにではなく意味を読み取って行くと「こんなはずじゃ」と絶句する。と言うのは、その物語の背景には十字架で処刑されたイエスを「メシア=救い主」という信仰があるから。処刑されたイエスと出会った人々は、その生と死が何であったのかを必死に探求した。それは、古代イスラエルの人々がバビロニア帝国によって国を滅ぼされ、バビロニアへ補囚となったその悲劇の意味を探したように。

 イエスの弟子たちは、十字架刑死となったイエスの様に「神」を発見したのであった。「神」は全知全能ではなく、恥辱と汚辱、嘲りと排除を受ける人々と「共にいる方」である、と。イエスの馬小屋での誕生の経緯はそれを象徴している。煌びやかな、豪華な飾りの中には神はおられない、「こんなはずじゃ」なのだ。

 神はダルクの仲間である。これが、クリスマスのメッセージとなっている。私はキリスト者として、その神に従って行きたい、ダルクの仲間になりたいと願っている。どうか、みなさんもご一緒しませんか。

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