対談 外山憲治さんに聞く V


聞き手 それで名古屋に帰ってこられたわけですね。
外 山 3年半経って、東京ダルクはだいたい次の人が育ってきたんです。九州をやり始めたオオキさんとか、横浜の今の責任者のイサム、それとイソハタさん。ああいう人が育ってきましたから、念願だった名古屋にダルクをつくろうと思って帰ってきたんです。で、「今日だけ」が染み付いてますから、だんだんと、「今日だけ、人に会っていこう」と。ミーティング場でトレーニングした。自分の欲してることを言葉にするということをやるわけですね。「お金がない、支えて下さい。」最初は恥ずかしいもんですから、顔が真赤になる。
言えないんです。ほんとにそう、ほんとにそうですよ。「そんな、みっともない」って思ってた。ずっと「そんなこと言えるかよ」って思ってたんです。でも、ほんとにお金がなかったから、言ったんです。聖職者なんかにいっぱい会いましたけど、ときどき「あんた、ほんと思慮がないね」とか言って笑われた。
そうなんですか。
そうですよ。いやー聖職にある人はそうですよ。我々よりも人間くさいですよ。
まあ、そうかもしれませんね。
妙に差別的ですしね。だから、会えば会うほど、「ああ、これが現実なんだな」と。お金がないもんですから、布池教会の駐車場でバザーを開いたりですね、カテキスタの吉本さんが一生懸命やって下さって、かろうじて、お金ができた。南山教会で講演会もやって下さっている。それでも、やっぱお金がいつも心配でした。心配だからこそ、寄付をお願いに、いろんな人に会っていったと思います。
でも、3年、4年とやっているうちに、「しょうがない」と。「お金ができるかできないかは、後援会の問題だ」と。「俺がしゃかりきになってこんなことやってるうちに、ダルクのメンバーたちの回復のことの方が、俺の仕事が一番よくできる部分だろうから、それやるしかないんだ」と。シンプルになっていったんです。それまでは東京ダルクとおんなじように、家族相談も名古屋ダルクでやっていましたから、家族が押しかけるわけです。あるいは、薬が止まらない人ばっかり集まってきましたから、解毒センターもやるわけです。その上、お金も集めなきゃいけない。集まってきたお金は、ケアしなきゃいけない。次も送ってもらうために礼状書いて、振り込み用紙入れて、宛名書いてまた返さなきゃ集まらない。全部ひとりでやらなきゃしょうがなかったんだなと思いました。そのことが僕の自立にはすごく役に立った。誰かを当てにしていたら、1日も、過ぎないわけですね。後援会、ダルク後援会があるとはいえ、タケちゃんはあの感じですし。
あれが良かったんじゃないですか、かえって。
そう、自由でよかったんですが、当てにはできない。でも、それがよかった。
タケちゃんも含めていずれの人も当てにできない。「できるかできないかは、ハイヤーパワーの問題だ」と、そういうふうに思いました。僕は、「自分がこうやって髪振り乱しながらも、信じて、今日だけ最善尽くして生きていたら、続くものは続くだろう」と、思うしかなかったんですが、そういうふうになっていきました。それが、またよかったです。そして、そこに名古屋ダルクができましたから、この地域の薬物依存の人たちがいっぱい、集まってきた。そういうことです。
名古屋弁護士会人権賞を受けられましたが、どういう点が評価されたと思いますか、評価されるきっかけはあったんですか?
たぶんYWCAとか、いろんな所で、メッセージを届けているうちに、やっぱ珍しいもんですから、そういうふうになっていったんでしょうね。
市民権を得たという感覚はもたれましたか?
持たないですね。誰かから賞を受けるためにやっていたわけじゃないですしね。
ただ、そのことですごく助かったのは事実です。すごく後に助かったなあ。評価に関して思い当たるふしは、名古屋弁護士会の当時会長だった楠田さんが、ある日、おんぼろダルクに訪ねてきた。「外山さん、俺のもっている国選の担当が拘置所にいるから、会ってくれないか」と、「いいですよ」って僕は会いに行った。それが今代表やっている柴さんでした。彼が拘置所の中の向こう側で、「ヘヘーン」とか言っているわけです。「なんだか分かんねぇなぁ」とかって思いながら、裁判などに立ちあいました。そういうことがあったから、楠田先生も、推薦したのかなと思うんですけど、よく分からんですね。
けど、ダルクの一番大切にしている、まだ苦しんでいる薬物依存者にメッセージを伝えること、そういう場所、居場所にしようということが、すごくよかったんだと思いますね。
多分薬を使っている間、世間から邪険にされていたでしょうからね。
唯一の味方でいようと思いました。薬中に味方がいないと、こいつらかわいそうだよなと。僕もそうだった、近藤さんが唯一の味方だったわけですから、それとおんなじことをやっていこうというふうに、ずーっと思ってやってきたんでしょうね。それはきっと柴さんにも受け継がれている。
「この扉を開けたら、この扉の向こう側に愛があります」別に僕が言い始めたわけじゃないですけど利用している人がそういうふうに思ったんでしょう。いろんなダルクがありますけど、名古屋ダルクはそうやってこれからも活動していくということでしょうね。ということで、名古屋弁護士会の人権賞が与えられたということでしょうか。

名古屋ダルクの立ち上げから15年が経ちましたけれども、今はどんなお気持ちですか?
10年目で三重ダルクを立ち上げ、15周年ですから岐阜ダルクだったんです。柴さんが帰ってきたのが14年目ぐらいだったでしょうか。柴さんに言いました「代表やってみる?」って。「僕は二番手でいい、だから代表でやって」って。そろそろ名古屋ダルクで1番有名なのが外山憲治じゃどうしようもないなと思って。新しい血が必要だと。そういうことでした。大体こういう小さな活動でも15年もやってきたら、縦型の社会でいったら名誉顧問とか会長とかになるのが普通だなと思いましたから、じゃあ肩書き全部外そうということにしました。逆三角形なんですダルクの役割はいつも。じゃ僕は何をやるのか。無印の薬物依存の一人として、新しい人たちと一緒に活動する、そういうことだなと思います。
最後に、肩書きをはずした外山憲治としての今後の活動は?
岐阜にもいろんな思い出があります。岐阜の女の人が「ダルクをやりたい」って言ったから、「じゃあ代表になって」で、彼女をサポートしながら、岐阜ダルクを作っていこうかなと。時間がかかりましたけど、今回は時間かけてやろうということで彼女にも参加してもらって、一緒になって作っていく、それでいいかなと思ってやっています。
岐阜ダルクができて、野村司教も岐阜ダルク応援の文章を書いてくださっています。
かおりさんという方が代表ですか?
ええそうです。
女性ダルクということですか?
女性ダルクということではなくて、ダルクの代表が女性です。
女性では初めてですか?
そうです。女性がいいかなと。大変ですけれど別に男でも女でも。女の人であってもいいわけです。
本日は名古屋ダルク15周年にあたりまして、創設者の外山憲治さんにお話を伺いました。 有り難うございました。                  (終)

薬物依存の方々が1人でも多く回復されることをお祈りしています。

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