宗教からの救い

ダルク後援会会長 竹谷 基


 4月2日(土)名古屋ダルクのスタッフ柴 真也君の結婚式が行われた。
 私は司祭として司式を勤めさせていただいた。初め、薬中のメンバーの多い結婚式をカトリック式ですることに危惧していた。というのは、破天荒な人たちに堅苦しさを強いるだけじゃないかと思ったからだ。
しかし、それは杞憂に終わった。各地から駆けつけたメンバーにはカトリックの信者もおられ、退屈してはいなかったようだ。式後、後援会の方も私と同じように心配していたと旧知のダルクのスタッフに話されていた。ところが、彼らが言うには、むしろ、薬中には生真面目すぎる者が多い、見てみろよ、みんな、精一杯の正装して来ているだろ。普通なら、派手な格好して来るのが当たり前と思うけれど、そこが、違うんだよ、真面目に考えすぎていて、合わせようとして無理があるんですよ。だから、薬にはまってしまう、と。

 私は、これらのことを聞いて思い出した。それは、イエスの救いが宗教からの救いだということを。※@宗教はラテン語のreligioから来ている、その意味はものごとをやる「ていねいさ、慎重さ」である。※Aつまり、祭儀の順序だとか、所作をていねいに、慎重に行うということだろう。イエスの当時のユダヤ教はそのreligioは煩雑極まりのないもので、特に、貧しい下層階級にとっては守りきれるものではなく、かえって、もっと自らを貧しくし、抑圧されることとなった。

 一方、religioに熱心な指導者たちはそれによって傲慢となり、貧しい人々を裁くこととなった。イエスはそれらに対し、救いがreligio、(結局は、自力)から来るものではなく、神からの一方的なお恵みであることを身をもって証されたのであった。まさに、宗教からの救いだったのである。

 さて、よく見ればreligionに熱心だった人々は真面目であったのだ。真面目だからこそ、もっともっと「ていねいさ、慎重さ」を求めたのであろう。しかし、ついには、その真面目さが自己と他者を縛る羽目となったのだ。

 イエスは言う、「もっとおおらかに生きようぜ、空のカラス、野のアザミを見ろよ、何にもしないのに、父ちゃんの神さんはカラスに食わせ、アザミを装わせてくれるじゃないか、神さんはわし等必要な物をちゃんと用意してくれるのだよ」と。
 
 私たちが薬や宗教に頼らなくても、おおらかに明るく楽しく生きられるように互いに仕えて行きたいものです。

 どうか、みなさま、薬中に苦しんでいる者たちに励ましの声とお金を少しくださいますようお願いいたします。

          ※@、A参照 田川健三著『キリスト教思想への招待』勁草書房 2004年

戻る