対談 外山憲治さんに聞く T


聞き手 15周年にあたりまして、外山さんのお話を、色々おうかがいしたいと思います。
外山さんはダルクにつながる前は、どのようなご様子でしたか?
外 山 進学した高校に薬物が有って、その最初の一回使うことで、後に18年間薬が止まりませんでしたね。そして、虜になってたと言う感じでした。
最初に使ったクスリはなんですか?
ハイミナールという、睡眠薬です。
あの頃、流行ってましたね。
ええ、覚せい剤やっている人は皆、ハイミナール結局やってます。
いわゆる入門薬。
そうですね、登竜門。あれは、スーパースターになれる。
眠くなるんじゃないですか?
逆にたくさん飲むと覚醒するの。セデスもそうですよ、鎮痛剤なのにしゃきっとする。大量に飲むとしゃきっとしましたね。
ですから薬物が、効能どおり効かない成物があるという。ダルクに来る薬物依存者にドクターが処方するんですが、精神安定剤を処方するとおかしくなります。どの人も、不安定になる。不思議な事が起こるんです、だからどの人にも、同じ様に薬物が効くとは限らない。
それで、家族の方々はどうでしたか?
母親も半狂乱になって薬を止めさせる為に全国有名な医療に僕の手をひいて、治療を試みるんですが、どれもこれも、ほとんど役に立ちませんで、最後は横浜の「せりがや園」と言う所(日本で唯一麻薬中毒・ヘロイン中毒の病院)にも入院しましたが、結局は上手くいかなかった。
それで、青春時代は、街で粋がって肩で風きって歩いていました。その頃に病院とか、手錠も架かりましたし、絶望して『生きてる価値がないんだ』と思って、自殺未遂もしましたね。そういう生活がだいたい10年にわたりました。
ですから、命と薬物を駆け引きしながら、生きてきたんだなって思いました。自分が薬物依存症、依存症なんて言葉も知りませんでした。意志が弱いんだろうなっていうふうに思っていました。父親が、「自分の勤めてる会社にアルバイトに出ろ」と言うもんですから、僕も仕方がなくて、アルバイトやってるうちに依存を薬物から仕事に切り替えていった。
その事で一時、薬物が止まるんですが、切り替えて仕事に没頭するわけですね。そうすると、会社も重宝だから、すぐ役職をくれて、もっと仕事をするよう仕向けるわけです。そんな中3年くらいで息切れを起こしたんです。
再び薬物がそこに登場して、こんどはセデスだったんです。それは効能書どおり最初飲めてたんですが、今になって思えば僕の中に耐性ができてて、量が増えていって、三ヶ月位すると50錠くらい毎日セデス飲んでて、半年で100錠くらいに増え、後はもうそれを使うしかありませんでしたね。
こんなに薬を飲んでるのは自分でもおかしいと思ってるんですが、入れてないと仕事にも行けませんし。
その間も仕事は続いていたわけですね。
ええ、100錠飲みながら続けていました。生きるために、セデスが必要になっていました。暫くして、仕事に行けなくなって休職が始まって、それでも、薬が止まりませんで、肝硬変が起こってきて、体が真っ黒になってきて、仕事に出たり休職したり、それを繰り返しながら、30過ぎてましたね。医療にも繋がり、止めるために、恋人も作った、仕事もした、運動もしてみた、それでも薬が止まりませんでした。だから、もう、何をしていいのか分かりませんでした。最後に入院した麻薬中毒専門病院の医療スタッフが「外山さんは、もう医療じゃ治りません。東京に近藤さんという人がいるから、その人に会ったら何とかなるかも分からないから、会ってみて下さい」と言われました。
そこで、近藤さんを紹介されたんですね。
僕はもうあきらめてて、会いに行く気もありませんでしたし、もう死ぬんだな、そろそろご飯は食べられませんし、ほんと弱ってきました。2階で住んでいたんですが、階段も四つん這いで下りたり、トイレも四つん這いで行ったり、ガタガタでしたね。「近藤さんに会いなさい」って言われてから、一年ぐらいして近藤さんから、電話が掛かってきたんです。
あちらから?
近藤さんは当時、東京の鶯谷でメリノール・レジデンスという、神父が住んでいる家があって、そこの三畳の間で彼は暮らしてて、ロイ神父の助手をしてました。宛名書きしたり、切手貼ったり、そういう仕事をしてました。
まあ、うちのおかみさんが、最初に電話したそうなんですけど、「何とかならんか?どうしょうもない、いつも、よだれ垂らしながらうちでセデス毎日飲んでいる奴が居る」と。
近藤さん電話のむこうでこう言いました「お前は病気だ」と、「すぐ、自分に会いに来い」と言ったんです、じっと聞いてて何故か知らないけど魅入られるように、彼に会いにいきました。その日も、朝150錠くらいのセデスを飲んで行ったんです。
一人で行かれたんですか?
大きな荷物抱えて、一人で行きました。会ったら中年のおっさんで、彼の後ろから背中見ながら付いて行って、彼の住んでいる家に連れ込まれたんです。
そして、彼が寝てた布団で、僕はその晩寝たんです。
近藤さんは当時、その三畳間が彼の全てでした。
憲さんが一番初めの、近藤さんの患者?
今思えば、近藤さんも僕みたいな奴が必要だったんですよ。
彼は、自分のためにも僕みたいな薬が止まらない人が必要だった。
彼は、メリノール会から給料もらってそこで生活し、貧乏で布団も一つしかないから、自分の寝てる布団を僕に提供して、揃ってない布団を彼は事務所の床にひいて寝たんだと思うんです。机の間に。まあ、そういう時代でしたね。
僕は思うんですけど、ダルクなんかその頃影も形もないわけで、薬物依存症が当時よくなるとは誰も信じてなかった。
近藤さんと会って、彼が言ったのは「1日3回のミーティングに、出たらよくなった」って自分の話をしてくれた、「だから、貴方も出たら」と言われました。
当時、夜はNAのミーティングが毎日開かれてました。でも、昼間のケアがないから、朝と昼は、マックのミーティングに出て、夜NAに行ったという事です。
当時の近藤さんの印象は?
近藤さんは会ってきれいだなと思いました、すごくきれい、当時ね。
そのきれいと言う意味は?
美しいなと思った、すご〜く、きれいでしたね。言葉が少なかったし、やってることがすごいきれいでしたね。いっつも横にいましたから、だいたい判るじゃない、しばらく見りゃ。僕みたいな薬が止まらない人達に自分の都合じゃなくて嫌なことやってました。
今思えば、そういうことが中心の仕事だった。だから、すごくきれいでした。
僕なんか味方が全然いなくなちゃったわけですから、近藤さんが世界で唯一の味方でした。だから尊敬できましたし、最初は、じゃ、近藤の為に止めてやろうかなって思いました。そんなに、一生懸命になってくれるんだから。NAミーティングに彼が繋げてですね、「毎日行け」って言うから、毎日行くんですね。
そのうちに、それで元気になっていったんですよね。
その時点で、薬はもう止めてた?
彼と会ってその晩、お風呂に入って、最後の薬を風呂のお水で飲んで、それが最後です、今日まで。
(次回に続く)

戻る