ダルクの一歩

ダルク後援会代表 竹谷 基


 例のイラクでの人質事件以来、「自己責任」という言葉をよく耳にするようになった。早くも、2005年度の流行語大賞に決まったようなものだ。しかし、この国の政治家や役人はよくこの言葉を使う。私の関わるホームレスの人たちについても、自業自得、「アリとキリギリス」のキリギリス、好きでやってるから、とか言って、自分たちの無策を棚上げしている。また、薬物依存者の人にも同じだ。使う方が悪い、我慢が足りない、逃避だ、と言ってまともに関わらない。私たちもそれに洗脳されて、ホームレスや「薬中」をそのように見下している。この世界は「自己責任」という言葉で、人が互いに関わらないことを正当化しているようだ。
 さてさて、イエスの福音は何と「自己責任」とは無縁なのだ。なぜなら、天の神様は人間の弱さを承知してるから。 例の禁断の実のアダムとエヴァ、彼らは罪をなすりつけあっている。また、イエスの関わった人を見よう。いなくなった羊や放蕩息子の弟、最たる者は弟子たち、イエスを裏切って逃げかくれした。あるいは、パウロ、彼はこの分裂する人間を誰が助けてくれるのだ、と叫んでいる。これら「自己責任」を取れない者たちを引き受けてくださったのがイエスなのだ。
 イエスは山上の説教でこうも言っている。「人は神の掟を守るとか守れとか言っているけれど、省みればできないことがわかるだろう。たとえば、殺すなの掟、つきつめれば、人をバカとか罵ること、これも殺すことになる。姦淫するな、これまた厳しい、欲情やみだらな思いを持つだけでも姦淫したことになる。どうだ、出来るか。」さらに、イエスは言う、「人を愛しなさい、ではなく、敵を愛しなさい。どうだ、絶対守れるか。まず、無理だろう。」つまり、イエスは自分を律する者が偉くて、そうでない者は価値のない者だから、彼らとは関わらなくてもいいという考えはおかしいと言っているのだ。律しようとしても律しきれない自分たちが、弱さや間違いを受入れ合い、認め合い、互いに支え合おう、関わって行こうと言っているのだ。イエスの十字架死は人間の弱さの行きつく所だ。その人間を誰が引き受けてくれると言うのだ。イエスは引き受けた。
 ダルクの一歩、薬物依存からの回復の一歩、それは弱さを認めることから、と言う。イエスは私たちを優しく見守っている。


戻る