花が待遠しい
ダルク後援会代表 竹谷 基
寒暖を繰り返しながら、確実に、春はやって来ました。自然は時には猛威を振るい、人間を恐怖に陥れますが、同時に、安らぎと幸福、希望をも与えてくれます。かって、東北にいたころ、2月も半ば過ぎると雪がとけはじめ、水がしずかに染み出しているのを見ると、ああ、春になると、心うれしくなったことを思い出します。(実は、雪掻きからの解放を)今、私たちが待ちわびているのは花でしょう。特に、私は花の下での宴を楽しみにしています。
さて、キリスト教会では、この時期(今年は2月25日から4月11日)をイエス・キリストの十字架上での刑死を想起する四旬節として送ります。約2000年前のユダヤで、イエスは私たちに神の国、すべての人が尊重される状態の実現を、その言葉と業、病人や貧しき人々との連帯、で広められました。しかし、時の宗教、政治の指導者たちから異端として排斥、処刑されてしまいました。
ところが、イエスと出会い、受け容れられ新しい命をいただいた人々は、イエスは死から甦り、今、生きて働いていると宣言するようになりました。何故なら、自分らのような疎外された者たちと共に生きられ、そのために刑死したイエスを神は見捨てるはずはなく、顧みられ死から復活させられ天に上げられたと信じたのであります。彼らはこのイエスこそ神の子と告白し、従い、神の国を広めよう、と立ち上がりました。それが、後のキリスト教会の出発点になりました。そして、イエスの十字架の死と復活を想起することはキリスト者の中心となり、教会は毎年時期を定めて行うようになりました。
キリスト者である私はこの時期になると、あわてて見繕いをし、質素な生活を試してイエスの十字架の苦難を偲ぼうとします。が、いかんせん、付け焼刃のため、すぐボロが出て、春だ、卒業式だ、花見だと言って、日頃の怠惰な飽食の生活にもどってしまうのが常になっています。
このような自律しない私に教会は賢明に、一年のこの時期に四旬節を定めたのだと思います。365日のせめて一日、一時間、一分イエスの死と復活を思い起こせと、教会は招くのです。さすれば、復活祭の美酒はうまいのだと誘惑するのです。復活祭が待遠しい。
私のダルクとの関係も同じです。後援会と言いながらも、いつも、ダルクのことを考えているわけではありません。けれども、ダルクや薬中の人たちのことを全く知らなかった時より、少しは、Aさん、B君、Cさんと思い浮かべ、消息を気にします。経済的にピンチだと言われれば、ない袖を振ったりします。まあ、いい加減だと思われることぐらいなのです。こんな私なのですが、むしろ、ダルクの方からはたくさんもらっています。ハイヤーパワーのこと、受け容れること、生きること、大事なこと、見ること、などなど。ダルクとのほんの少しの関わりですが、私にはとても豊かな交わりとなっています。
どうぞ、みなさまもダルクと豊かな出会いをされますようにお招きいたします。
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