いやしを求めて第3号 ダルクの仲間たち (3)


 

 私は今、薬物依存症に苦しんでいる21才の依存症者です。小さい時から、とても一人になる事が嫌でした。母親が買物へ行く時も、泣きながら「一緒に連れてって!」と言ったり、母親の指をつかんで離さなかったりしていました。父親は仕事に忙しくあまり接した記憶はありません。今でも滅多に言葉を交わす事はありません。でも私の心には父親は偉いという思いがはなれた事はないのです。
 小学校時代はいじめに苦しんだ事もあります。でも、その原因は自分にある事が分かります。小学校5年生の時、自分がいじめ続けた子がいました。ただ気に入らない、そんな安易な理由で、その子を言葉や無視で傷つけました。6年生に上がったころ、今度は私がその子に無視され、その子たちのグループからハバにされました。
 中学校に上がったら必ず強くなってやるという思いで、何とか時を過ごしました。そして中学校に上がるとまず髪を染めて制服の上着丈を短くしてみんなに威しをかけているつもりでした。中学校1年生の時は、中3の男の不良と付き合っていたので、先輩も何も言わなかったけど、その人が卒業すると先輩に毎日呼び出され、殴られました。その頃から周りの友達はシンナーを吸い始めました。私はいつも周りの友達にシンナーを吸わないように止めていました。シンナーを吸うのは不良ではないと考えていたのですが、中学3年に上がり、付き合っていた彼氏がシンナーが止まらずとても苦労しました。何を言っても、何度言っても止まらず、止まるのは私が傍にいる一時だけで、最後には私は「今度吸ったら、私も吸うから」と言ったのですが、止まったのは一週間ぐらいで再びシンナーを吸い始めてしまいました。
 私は一回くらい吸っても癖にはならないだろうという軽い気持ちでシンナーを吸い始めました。2〜3回と吸っているうちに、とうとう私も止まらない体になりました。それから2〜3日おきに吸うようになりましたが、勉強だけはやっていたので高校には普通レベルの高校には入れました。しかし高校には入っても止まらず、毎日吸うようになりました。最後の方は学校にも行ったり行かなかったりでしたが、秘書になりたいという夢を捨て切れず、秘書の専門学校に上がりました。でもシンナーはまったく止まらなく、また自殺未遂も何度となく繰り返しました。親に「死んでくれ」と言われたときはさすがに苦しく、手首に5針縫う傷を負いました。
 それから学校もやめ、フラフラと遊び回りシンナーの量は増えていく一方でした。それでも何とかバイトを見つけてやっていたのですが、ある日「病院に診察に行こう」と言われて行ったら、いきなり看護婦さん5〜6人に押さえられ保護室に入れられ強制入院でした。その時18才、初めての精神病院入院でした。二ヶ月半程で退院したのですが、その日からすぐシンナーを吸いました。そしてついに足が動かなくなりました。あの時は、本当にみじめでした。まっすぐ歩けなく、ドブにはまって足が上がらなく自分の力で抜けることが出来なくて、足は勝手に走り出し転んで顔中傷だらけになったり、お風呂も一人で入れない、ご飯も自分で食べれない。今は思い出すのも嫌なつらい思い出です。
 しかし、そんな事があってもシンナーは止まりません。マリファナや覚醒剤も試しましたが、やはりシンナーが一番でした。通っていたクリニックからは8〜9個の安定剤と睡眠薬をもらい、8〜9回の精神病院入退院を繰り返しました。見るに見兼ねたクリニックの先生が、私が20才の時、沖縄ダルクを紹介してくれました。
 私は行くのなら死んだ方がいいと言い続けましたが、最終的には行く事になりました。ダルクに入寮し、毎日ステップをやり、回復のためにミーティングに出続けました。初めて3カ月半薬を使わないでいられました。しかしまた、薬が始まり退寮になり、名古屋ダルクに通所し始めたのですが止まらず、また沖縄に戻り、また退寮になり、そして今名古屋ダルクに再び自分の回復と成長のためにやっています。
 ミーティングでは正直になる様にし、午後の名城公園ランニングでは体を疲れさせ、夜ぐっすり眠れる様にし、一日三回のプログラムは欠かさない様にしています。嫌な事をやれと言われたらやる様にして、今まで人の言う事に耳も傾けなかった私が、ここまで変われたのも薬が止まる日があるのも、このダルクのプログラムのお蔭です。
 しかし、依存症という病気はいつどこで出るか分かりません。だから今、私は自分に与えられたプログラムを真剣にやっています。ダルクにつながって自分で自分を見つめ直すことができる様になり、キレイな物をキレイと言え、悲しい時には涙が出て、笑いたい時は自然に笑える、そんな当たり前の事が今までできなかった私ですが、最近やっとできる様になりました。すべて支えてくれた仲間達や親、そしてダルクを紹介してくれた先生のお蔭だと今は感謝しています。
 これからも、つらいこといっぱいあると思うけど、苦しんでいる仲間達と共に分かち合い、プログラムを実践して成長していきたいです。
(亜也)


 

 ヤク中になって良かった!DARCにつながる事ができて良かった。シラフでこんなに興奮し、全身が震える程の感動をしたのは生まれて初めての経験だった。これは、昨年3月ハワイで自助グループのギャザリングに参加した時の感想です。
 クスリを使わずクリーンでいる事がとても気持ち良く感じました。ハワイへ行きたかった。それもクスリを使わずに……。
 初めてハワイに行ったのは今から13年前、1983年3月。ちょうど大学を卒業する年で11月頃から一生懸命バイトし、お金を貯めて行きました。目的はクスリ。10日間滞在したけど、朝からクスリ漬けのため、帰国してからも記憶がほとんどなく、何をやっていたのか?往復のチケットとわずかながらの生活費。ホテルも予約せず、友達が泊まっているホテルへ転がり込むありさま。今振り返るとよくあんな事やったなと思いますが、その時は本当に楽しくいい経験でした。
 それから10年余り使い続け、ようやく(?)DARCにたどりつきもうダメだと思いました。クスリを止めたい!でも止められない。過去何度かもう止めようと思い1〜2カ月は使わずにいる事もあったけど、すぐまた使うその繰り返しでした。
 ダルクの小さな住人達のお蔭で、自分の底つきを気づかされ、クスリが止まり始めた。最初は欲求との戦いでした。一人でいると気が狂うのではないか思い、なるべく一人にならず仲間の中にいる様にして気をまぎらわしたり、ミーティングで話したりしていました。そんな日々が続き自分に「今日だけ使わないようにしよう。クスリは明日使おう」次の日になると又同じ事を言い続けたりしていました。
 それから1年余りクリーンが続き、ある時、又ハワイへ行きたいと思い仕事を捜しました。しかしその時ボクは34才既婚子供2人。世間ではいい大人。それがアルバイトを探しても雇ってくれる所はどこにもなく、あせるばかりでした。「やっぱりアルバイトは無理かな。世間は甘くないな」それがボクの実感。それでもあきらめず仕事を探し続けました。ハワイに行きたい!!絶対に行きたい!自分の回復のためとカミさんを説得し了解も得たのだから…。絶対に行きたい!!!
 結局最終的にハイヤーパワーから与えられた仕事(プログラム)はボクが最もイヤなしごとの交通誘導員(ガードマン)でした。いくら逆説のプログラムだ、自分のイヤな事をすれば回復できると言われてもこれだけは本当にイヤでした。でも今やらなければハワイに行けない。「今日だけ仕事に行こう。そして明日辞めよう。」その連続でした。朝起きる時、今日は休もうかなという考えが必ず最初に頭に浮かびます。そんな日々を続けていく内にお金も少しずつ貯まり始めました。
 ある時気づきました。それは、今まで何かの目標のために全て自分でやった事がない、いつも最後には誰かに依存しているため自立できていないという事でした。13年前のハワイの時も少しお金が足りないから親に面倒見てもらったし、引っ越しの時、結婚資金、サラ金の返済など全て親に依存していた。それに気づいたとき時どうせ行くなら今回は全て自分でやってみよう。行けるかどうか判らないけどベストを尽そう。そんな考えができる様になってからは不思議と気持ちが楽になり時には仕事も楽しめるようになった。
 今思うとこれが、「今日だけ」と言う生き方なのかなと思った。確かにこの生き方は非常に楽で気持ちが良い。そして1カ月半という短い期間(時に長いと感じるのだが…)でハワイへ行くため必要なお金を貯める事ができあの感動につながった。
 あれから1年、相変わらず毎日ボクは同じ仕事を続け今年も又ハワイへ行って来た。あの興奮と感動を味わうために…。
 こんなふうに回復に向かってボクが変わり続けられたのも、皆さまの援助のお蔭です。感謝の内に。
(GAN)


 

 初めまして、私は薬物依存症者のじゅん子です。
 私が主として依存している薬物は、ライター専用のガスです。
 初めは遊びのつもりで吸っていたガスが、まわりの環境や自分からの逃避のために使うようになり(これは後で気づいたことなのですが)、次第に回数が増え、ついには朝から夜まで吸い、一時でもガスがないと不安でしょうがありませんでした。ガスがなければ生活が出来なくなり、ガスが空気のような重要な存在になっていました。手足が震え、時にはひきつけを起こし、一人では歩けない状態になりました。
 両親や友達にも恵まれながらも、その人たちの心配して忠告している言葉にも耳を貸さず、(忠告してくれたその場では“もうやめる”と言っていましたが)ボロボロになった体でガスを買いに行く時だけ外に出、後はずっと家でガスを吸っていました。お金がなくなると、安いカセットコンロ用のガスを扱い、それでも底をつくと友達や親からお金を盗み、衣類などを友達に売ってガスを手に入れました。最初は楽しくやっていたガスが、いつしか“なぜ私はこんなことをやらなければいけないの”と泣きながら吸うようになりました。
 そして11月の終わり頃にダルクにつながりました。ダルクにつながった後も、先ゆく仲間やプログラムを心の底から信じることが出来ず、何度もスリップしました。そして気づいた時には、時すでに遅しで何人もの大切な人を失いました。家族も私が吸い始めた頃は心配して色々言ってくれましたが、何も言わなくなりました。私がガスを吸っていても言うことはただひとつ、「ダルクに行きなさい」だけでした。
 私はその時初めて実感しました。ガスの恐ろしさ、自分の置かれている立場、そして私の信じることの出来るのはダルクの仲間とプログラムだけだと。私は自分を守るために虚勢を張るのに疲れ果てました。あるがままの本当の自分を見てほしい、自分らしい生き方がしたい。助けてほしい。私はまだ薬物をやめて二週間ですが、私にとっては“今日一日”でここまでこれたのです。先のことは分からないけど、今日も今日一日で過ごしていきます。それでは、また。
(じゅん子)


 

 薬物依存者のイクサです、私はシンナーを10年以上も使い続けてきました。病院に何回か入院しても退院しては使い続けてきました。
 17才の時には、ある有名な三重のお寺に縛られて連れて行かされました。お寺の駐車場で車の中に2日ぐらい食事もなしで縛られたままでいました。なぜかと言うと、私は「こんな寺には入らないぞ」と言いきっていたのです。もう本当に、嫌になり「まじめに修行するからここから出してくれ」と父に頼んだ訳です。そしたら、出してくれました。私の髪の毛はバリカンで刈られ丸坊主にされたのです。もう私は「こんな所にいたら、何も出来ないな」と思い、その次の朝早く抜け出したのです。家の近くまで歩きながら帰った私は、すぐ知り合いの家に行きシンナーを吸いました。私は又どこか遠い所へ連れて行かされても「帰ってこればいいんだ」と思いながら使ったのです。又それからも病院に入ったり出たりして使っていました。止めようと思わなかったのです。シンナーなしでは生きていけませんでした。食事をする時も食べては吸っていました。人の事など考えず死など恐れずにいました。両親はいろいろ何か治す方法を考えたと思うのですけど、どれをやっても私は止められなかったのです。
 最後の病院で入院していた時の外泊で又吸ったのです。父がたまりかねてダルクに父と2人で行きました。私はダルクに来ても「隠れてシンナーを使えばいいんだ」と思っていました。それから2回ほど家の近くに帰ってシンナーを使いました。。しかし不思議なことに4ヶ月ほど止めているのです。何故かと考えると、ここでの生活でシンナーなしで色んな事ができるのを感じたのです。嬉しいこともあるし楽しいこともあるし、以前だったらシンナーを使うことが一番楽しかった私が4ヶ月程おさまっているのです。ここにつながってなかったら今もシンナーを使っていると思います。ダルクは私の生き方を変えてくれた場所でもあり、シンナーを4ヶ月程も止める不可能なことも可能にさせてくれた場所でもあります。シンナーを使いたくなることもあるのですが今の自分を大切にしていこうと思います。いつも献金を頂きまして深く感謝しております。
(イクサ)


 

 依存症のFuzzyです。平成2年12月31日に外山さんから「何れ君に必要になるから」と名刺を頂いていながら、いろいろな理由づけをして中々ダルクの扉を開けることが出来なかった私ですが、ある問題を起こして仕方なくダルクにやって来ました。私を優しく迎えてくれた外山さん、仲間、そして5年間ダルクという施設を支えて下さった皆様方に感謝してもしきれません。4年前から医療に掛かり、病気に気づき、アルコールと薬物の施設のプログラムを入れても、自助グループでスポンサーに色々手助け励まされても、アルコールだけでも半年と止めることが出来なかったひどい病気だった私ですが、平成6年8月10日からダルクプログラムを始めたばかりですが、医療者を騙してまでも精神薬を手に入れ、アルコールから合法薬へ依存を変えていただけの私に気づき、今ではダルクの指示通りに自分でも不思議な位どんどん薬が減っている状態です。先日も私の依存の一つの楽な方法を取りたくなった時、ミーティングの後で「もうダルクに出入りするな」と叱られ、今ではそれが自分にとって一番きつい言葉だなと思う程ダルクに依存している私です。
 アルコール依存症、薬物依存症、摂食障害、共依存症などの病気がありますが、昔お世話になった自助グループや医療は1つづつ回復していく方法でしたが、初めてダルクに来てから何かが違うことに気がつきました。自分のストレスを正直に全て話せる場所だったのです。それをやり続けなければ又以前と同じ様に薬物に依存してしまう事しか出来無い私です。「君はアディクションのバーゲンセールだな」と仲間から言われるように自分でも病気が重いと気づき、ダルクプログラムにつながり自分の病気をリハビリする決心をしました。まだまだ回復とか成長とかいう言葉を使えない私ですがJust For Now(今だけ)で頑張っています。とてもこの様な言葉は世間で使えば信用されませんが、いつ薬を使っても可笑しくない私は、ダルクとかNAとか後援会の皆様の様に理解して下さる仲間の中でしか話せません。いずれJust For Today(今日だけ)で生活することから初め、又社会の中に戻れるかもしれません。でもその時期をハイヤーパワーが与えてくださるまでは、ダルクプログラムの中でしか生活出来ないのです。私の様に何年も自分の病気に気づかず、苦しんでいる仲間も大勢いると思います。そのためにもダルクの活動をどんどん増やして行きたいと思っています。私は今社会に出て働くことが出来ませんので、皆様の献金によって支えられているダルクで、生活のトレーニングをさせて頂いております。様々な方法でダルクを応援して下さっている皆様に、とても感謝しております。これからも宜しくお願い致します。
 最後にひどい病気の私の手紙を読んで下さった貴方に感謝して、どうもありがとうございました。
(Fuzzy)


 

 皆様コンニチワ、ダルクのミサです。ダルクにつながり薬物なしの生活をはじめ1年経ちました。三河方面から3つの電車を乗りかえ2時間半かけて毎日名古屋ダルクに通ってきました。今は名古屋ダルクの近くで安いアパートを借り1人で生活しています。
 ダルクを知ったのは、精神病院に入院していた時メッセージが届きました。初めは私は薬物依存症でもないし、この人達と違うし、自分で止めることが出来ると思っていたから、まさか自分がダルクに行く事になるとは思ってもいませんでした。しかしいつの間にか仲間と一緒にミーティング場に歩いていました。「明日からはダルクに行くのは止めよう」と毎日そう思っていました。お昼はトレーニングパンツに着替えて走るのですが「またランニングの辛さを忘れて来てしまった」とよく走りながら苦笑しました。
 ダルクの事を知らないままだったら今の自分はなかったと思います。私は10年間あらゆる薬物を使ってきました、その結果後遺症はひどいものでフラッシュバック(覚醒剤を使っている時と同じ状態)が起きたりします。信じようとしているのに人を信じられなく、すぐに死にたくなってしまいます。でも最近ではほとんどフラッシュバックはおきていません。薬物を使っていた時は幻覚が聞こえていたのに、ミーティングで話す事により少しずつ治っています。私の中で生きていける自信が出始めています。ダルクがあって同じ病気を持つ仲間がいたからこそここまで来れたのだと思います。ダルクのある事で薬物なしの生活が始まり、今では仕事にも行ける様になりました。この間通勤の途中で交通事故を起こしてしまいました。事故そのものは大した事がなかったのですが念のために脳の検査をした所、頭の中心部に腫瘍があるのを発見されました。手術に向けて休養中で今ダルクでこの手紙を書いています。これまで薬物が止まってからいろいろな問題がおこりましたが、解決してきました。今度の手術も同じ様によくなると思えます。いつもダルクを助けてくださる皆様にこの1年間の私のメッセージを伝えます。感謝の中に。
(美佐)


 

 フェノールアミノプロパン塩酸塩この薬物の名前を耳にした事がありますか?これが覚醒剤の薬名です。私「ビクター」は約八ヶ月自分の腕に打ち続けました。
 普通の三倍以上は使用したと思います。何故なら初めて入手した量が100gもあったからです。名古屋の職場に転勤してすぐ「ヤクザ」の友人ができました。
 その友人と相談して大もうけしようという事になり100g130万で購入し、私の友人のイラン人達に売るという段取りでした。100gも目の前にあると思うと存分に使う事ができ、その恩恵により「タコだらけの手」になりました。警察に逮捕され名古屋拘置所に収容されている時に新聞でダルクを知り助けを求めました。公団住宅に住んでいましたが家賃も払えず電気もとめられてローソクの灯りを頼りに暮らしていました。私はイギリス国籍ですので生活保護も受けられず、大使館に相談しましたがどうしようもなくダルクの扉を開けました。皆様から送られてくるお金のおかげで今日また生きてくることが出来ました。ダルクに来た事で自分の人生について考える時間が生まれました。薬づけだった私ですが少し健康になり、生まれ変わるために現在トレーニング中です。ダルク後援会の皆様に心から感謝しています。ありがとうございます。
(ビクター)


 

 昭和40年5月、私は北陸の城下町福井に生まれました。公務員の父母に祖父母、そして同胞は姉が1人の平均的中流家庭に生まれ育った私は、幼少のころから好奇心旺盛な性格で小学校の頃から喫煙、盗みなどを繰り返してきました。そんな少年時代、ふとしたきっかけで覚えたシンナー遊びは現実の世界をトリップして一時夢の世界に浸れる“魔法の遊び”でした。私はこの身も、心もとかせるシンナー遊びに、その後どんどん溺れていく事になります。
 シンナー遊びを初め数々の非行が重なり、私は中学3年の2学期に少年院送致になります。この時点で私は人生における決定的な敗北を経験しました。そうです、司法の前では私は、あまりにも無力過ぎたのです。少年院退院後もシンナー吸引が止まらず、少年院を出たり入ったりしている内に私はとんでもない事件に巻き込まれてしまいました。その事件とは、今から約8年前に福井で起きた少女惨殺事件です。事件発生1年後に私は殺人容疑で逮捕され、3年半の判決斗争を経て、完全無罪を勝ち取りました。しかし世間の目とは厳しいものです。母はそれがもとで神経病を発病し、入院生活を送っています。父と私も手足が震える奇怪な病気に悩まされ、私の家は根底からどん底の憂き目に遭わされています。でも元来負けず嫌いの私は、あわれみを受けるのが嫌いで、さまざまな課題を自分に課してトレーニングを積んできました。が依存症とは恐ろしいものです。薬物は止まっても形を変えて症状が出てきています。
 この病気を克服することは無理なのかも知れません、上手に付き合っていくのが賢明な事だと最近では思っています。どうか皆様におかれましては、この病気についてご理解を頂きまして、今後とも益々のご支援を賜ります様、お願い申し上げます。私も学校の方は3年生になりました。来年は一発警察官採用試験に挑戦しようと思っています。いつか又、皆様と再会できる日を楽しみにしています。ありがとうございました。
(ジェット)


 

【ダルク後援会より】
 ダルク後援会では会員を募集しています。会員の方には、毎月ダルクの近況をご報告します。
 なお、「いやしを求めて」の発行を継続していくために、300円程度のご寄付をお願いしています。


◆特別賛助会員(年間一口)◆
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郵便振替口座:
 00800−1−66786
口座名:
 ダルク後援会               


この「いやしを求めて」第3号は、ダルクポップアートファクトリーのメンバー(ちか、きゅう、じゃっく)によって制作されました。


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