いやしを求めて第3号 ダルクの仲間たち (2)


 

 私は薬物依存症のテンパイです。
 15才になってオートバイでスピード狂になっており、今の暴走族の一員でした。名古屋の栄周辺を暴走して、世間を騒がす事を繰り返していました。そんな中で今のトルエン(有機溶剤)を吸引するドラッグを持ってくる様になり、私も自然に吸うようになりました。
 しびれる様な快感があり、幻想の世界から抜け出せなくなっていきました。暴走、ドラッグ、事故の繰り返しで警察からマークされだしました。
 18才で初めて精神病院に入院させられました。鉄格子の外はジングルベル、正月気分なのに何故?と思う日が続き、頭の中が混乱していました。
 それからも入退院が続き、手のつけられない薬物依存者になっていました。町の中をストリーキングして走り回ったり、川の中にダイビングしたり、混乱の後には刑事事件を起こして日本中を逃げ回りましたが、追跡妄想からは逃げ切れず警察に飛び込み、両手に冷たい手錠がはまりました。幻聴と幻覚に悩まされる中、身柄が拘置所へと移管されました。そこでの生活は、自分の下の世話さえ出来なく、恥ずかしいほどのだらしない生活をしていたのを思い出します。
 やがて1回目の公判が来て、年老いた両親の前に手錠をつけた哀れな姿をさらしました。父と母を見たとき、目頭に熱い物を感じました。それからも長い拘置所生活が続きました。
 やっとの事で刑が猶予され社会に出てきましたが、仕事も続かず、またドラッグ三昧の生活が始まっていきました。精神病院の入退院が頻繁になっていき、泥沼を繰り返し、その末にダルクにたどりつきました。
 ダルクの好意でチャリティーで入寮させてもらい、若い仲間と一緒に回復に向かって歩いていきました。「今日一日だけ」を合い言葉に努力したつもりです。時々、ダルクの外山さんに尻に蹴りを入れられながら生きてきました。
 一年、二年、三年と過ぎていき、心身共に鍛えられました。
 ダルクがなかったら今の私はありません、これから先も、私の経験が役に立つのであれば、喜んでダルクの道具としてたずさわっていきたいと思います。
 ダルクを支えて頂いた後援会の皆様に感謝しています。ありがとうの気持ちをこめて。
(テンパイ)1995年9月帰天


 

 この御礼状は、皆様に届けて欲しいと、まだ元気だった頃、僕にテンパイさんが手渡したものです。というのも彼(テンパイ)さんは、一ヶ月ほど前に亡くなりました。住んでいた公団住宅の七階から落ちたのです。42才でした。やっとダルクから出て、新しい住宅と新しい仕事、新しい家族に囲まれて、これからというときの突然の訃報でした。
 私達ダルクのメンバーは、彼の柩を囲んで茫然としていました。もっと大変だったのは、残された奥さんと幼い子だったのは言うまでもありません。
 出棺の日、私達は全員で彼を送りました。自分の胸の中に悔いがあったのを思い出します。悲しいお知らせですが、こういう一面もダルクにはあります。
 ともかく薬物依存症の泥沼の中で彼は必死に生き、回復に向かってひたむきに歩き、衝動的な死を私達に与えてくれました。彼の命をかけてのメッセージを感じずにはいられませんでした。この一ヶ月間のご報告と好漢「テンパイ」さんを支えて下さいました方々に、心から御礼申し上げます。
(外山 憲治)


 

 初めまして、薬物依存のきゅうです。現在28才、今年の1月30日に覚醒剤取締法違反にて執行猶予4年の判決を受け、出所翌日よりダルクに通う毎日が3カ月を過ぎようとしています。26才で覚醒剤と出会い、27才で精神病院に入院と同時に覚醒剤に別れを告げたつもりでした。入院中に担当医より紹介され昨年6月よりダルクに通所を始めました。実家が三重県だったため、両親は施設の近くにアパートを借りてくれ私の病気を治すため一生懸命でした。1カ月目、家族を悲しませ人生をめちゃくちゃにした薬にはもう2度と近づかない、絶対に止めてみせる、2カ月目、仲間の薬の使い方を聞いて、もしかしてコントロールできるかもしれない、でも使いたくない、3カ月目、もう一度あの感覚を味わいたい、少しだけ……3カ月を迎える直前でスリップしてしまい再び精神病院へ、そして留置所にまで至ったわけです。
 留置所の中では後悔と反省の気持ちでいっぱいで家族に何度も手紙を出しました。内容はとても前向きで今からいくらでもやり直せると思いながらも本音はここまできたのだから、もうどうなってもいい、希望はありませんでした。手錠を外され自由になったものの喜びは一瞬で、すぐに絶望感がおそってきました。私は生きている価値があるのか、何ができるのか、マイナスからの人生なんてやり直したくない、死にたい、楽になりたいと真剣に思いました。
 出所してから1カ月程の間は全身倦怠感、イライラ、ソワソワ、そして人と話すのが怖くて、こんなんじゃ生きてゆけない、ただただ不安でよく泣いていました。自分の感情を言葉に表すことができず、失語症のようになった私を仲間は抱きしめてくれたり、同じ経験をしたことのある仲間は「1カ月ぐらいしたら治るから大丈夫」「無理に話すことないよ」等、私の状態が悪くなる度声をかけてくれました、私は仲間にくっついてミーティング場に通うというよりつれていってもらうという状態でしたが、徐々に心がほぐれてゆき、せめて健康であればといつも思っていました。そして、足を使ってミーティングに通い、昼間の運動プログラムを受けるうちにどんどん体力が回復していきました。
 ところが2カ月もすると勝手なもので、「こんなに健康なのに仕事もせずに毎日施設で過ごす必要があるの?社会復帰して、その上で回復していけるんじゃないの?薬さえ使わなければ社会でやっていけるのに、時間がもったいない、施設につながったせいで薬の入手先を知り、また薬を使ってしまい、前科はつくし、執行猶予中につき看護婦の免許は使えないし、どんどん生きづらくなる、もう嫌だ、こうなったのは自分が覚醒剤を使ったせいだけど、止めようと決意し親に告白した直後に入院させられ、施設につながったせい」とうらみの感情すら持ちながら毎日通っているのは本当に辛かった。
 仲間の言葉をハイヤーパワーを信じる事ができたら、薬物依存症と認めることができたら、感謝の気持ちが持てればと願ってた、思いやりのある人間らしい感情のない自分が悲しかった。多くのとらわれていることをなんとかしたくて、ミーティングで話し続けました。それでどうなるかなんてわからなかったけど……。
 クリーン3カ月を迎える少し前あたりから仲間の声が少しずつ心に響くようになりました。何人かの仲間に心の叫びを言葉にする度、色んな事を教えられました。過去にしがみついているんじゃなく、今は現実を受け止めて前向きに人生を考えられるし、薬を使って失くした物は多いけれど、本当は得る物の方が多いんじゃないかなって、健康であること、家族や仲間にそして施設につながったことに心から感謝の気持ちが持てるようになって、自分の考えがどれ程おかしかったのか、今までの感情は病気の症状だったとも思えるけれど、この3カ月間の気持ちの変化に驚いています。
 ハイヤーパワーを感じ信じられる今、時々感じる薬の欲求に対して、もう2度と使えないなんて悲しいって考えてた時もあったけど、今の生活を壊したくない思いの方が強いし、施設での生活も大切な時間と思えるようになりました『薬物依存症になって本当に良かったと思える日が必ず来るからあせらずに』という仲間の言葉を信じて、もっともっと気持ちのいい生き方を、そして変わり続ける自分に幸せを感じながら、新しい人生を仲間と共に少しずつ─歩んでゆければと思っています。
(きゅう)


 

 東京で薬が止まらなくなり、1昨年9月、再びダルクのドアを開けた。最初の頃まじめにプログラムを続けていたがダルクに通ってくる女の子に依存が変わった。カウンセラーの提案に逆らいながら…。
 去年の6月にダルクを出てアパートに移り、10月に結婚、2月に長男が生まれた。工場の仕事に行きながら残業がことわれず、夜のミーティングが減った。結局、3月の末仕事もやめた。何でミーティングも仕事も続かんねと自分に腹が立った。昼間家にいても会話も少なくゴロゴロしているだけで、そんな僕を見て彼女がいい気がする訳がなくケンカが多くなった。結局仕事が見つかるまでダルクに行く事になった。でもあせらなくてもいいと言う彼女の言葉に甘えて仕事を捜さなかった。やっと探した会社に書類選考で落とされ、次に2か所面接でことわられた。なんでこの有能な俺がって腹がたった。プライドが傷つけられた。昔の僕ならきっと薬を使っていたと思う、でも冷静に考えてみると、29才で未経験で退学退社の連続の男を、高い給料払って雇う会社なんて少ないと思えた。そう思って面接に行ったら、やっと仕事が決まった。
 仕事をしないでいた間、色んな気づきがあった。お客さん気取りでダルクに通っていた自分が高慢だったこと、夫婦ゲンカしても自分は正しいと思ってる我の強さ、新しい仲間が変わっていく姿が見れた事、ソフトボールをして、仲間と楽しさを分かち合えた事、薬なしでも楽しめるんだという昔味わった感動、仲間のあたたかさ、今の自分の現実、女房がいて、子供がいて、仕事は変わって家賃はまだ親に払ってもらってて、きびしいなあって思うけど、その真実からは逃げたくない。
 仲間との関わりも、嫌われたくないから自分の利益だけ考えていた。でもそんなもんじゃないって、自分が自分のために正直になって心を開いて、そんな関係でありたい。ダルクに居た頃やり残した事が一杯ある。やっと今少しずつ行動し始めた気がする。いろんなパワーに助けられながらダルクにはいろんな仲間がいます、これからもいろんなドラマが続くと思います。
 皆様のご支援に感謝します。ありがとう。
(サトシ)


 

 私が初めて名古屋DARC(通称ダルク)を訪れたのは、たしか私が高校1年の秋のことだったと思う。学校に行く気がしなくて、2〜3日家でゴロゴロしていた私をみかねた母が、車で連れていったと記憶している。
 私が母に連れられてダルクを訪れたその日、事務所の汚いソファーに固まって座っていた私の前に、ケンさん(名古屋DARC責任者外山憲治氏)はポンッとコーヒーを置いてくれた。私はそのコーヒーを手にすることすらできなかった。何しろ当時のダルクはそれはもう恐ろしく汚かったし、(今でも十分汚いけれど)ケンさんは私にとって生まれて初めて出会った薬物依存症者だったからだ。実は私が初めてケンさんに出会ったのは、私が中学3年の冬のことだったのだが、その時私には、ケンさんの、実際にはハワイで真黒に焼けた顔が、青白く見えたものだった。それが、その頃の私のヤク中に対するイメージだったからだ。
 私をダルクに連れてきた母は、しばらくしてから一人で帰ってしまい、私はケンさんと二人、ダルクにとり残されてしまった。それから私は、今度はケンさんの車に乗せられて名古屋市内のメンタルクリニックで行われていた薬物依存症者のためのミーティングに連れていかれた。細かいことはもう忘れてしまったけれど、隣に座っていた男の人がずっとビンボー揺すりをしていたことだけは妙にはっきりと覚えている。
 私がダルクともっと深く関わるようになったのは、それからしばらくしてからのことだった。ある日母から、「ケンさんたちと一緒にハワイへ行ってみないか」と言われあまりにも突然の、思いがけないハワイ旅行のチャンスが到来した。16歳の女子高生にとって、ハワイはあまりにも魅力的で、多少不安はあったけれど、結局行く決心をした。今になって考えてみると、このことが、(大げさに聞こえるかもしれないけれど)私の人生において大きな転機となったように思う。
 ハワイを訪れる目的は、毎年オアフ島で開かれる(「薬物によって大きな問題を抱えた男女の仲間の非営利的な集まり」セルフヘルプグループ)のギャザリングに参加するためである。
 私たちは、1992年3月27日に7泊9日の予定で出発した。その時一緒に行ったメンバーは私とケンさんの他に3人。言うまでもなく、私以外は皆、薬物依存症者だ。私はケンさん以外のメンバーとはそれまであまり面識がなかったし、自分自身も初めての海外旅行ということで、最初のうちはとても不安だった。
 ハワイに到着したその日から3日間の予定でギャザリングが行われるということで、私たちはハワイ在住のメンバーの車に乗って、ギャザリング会場となっているノースショアのキャンプ場へと向かった。
 キャンプ場へ到着するやいなや、たくさんのメンバーからのハグで出迎えられた。この人たちは本当にヤク中なのだろうかと疑いたくなるほど皆とてもイキイキとしていた。そのキャンプ場の隣りには海が果てしなく広がっていて、私たちは日中は海で寝ころがってボーッとして過ごした。
 ギャザリングのメインイベントともいうべきものが、カウントダウンミーティングである。これは、メインホールに皆が集まってメンバーのクリーンタイム(薬物を使わずに生きる時間)を祝いあうというもので、中には20数年というメンバーもいる。
 “10days...9days...8days”とカウントされる頃には、会場は異様な熱気に包まれていく。ついに最後の“1day”がカウントされると、会場からは大きな拍手が鳴り響く。そして“Keep coming back! Keep coming back!”の大合唱が始まる。世界の広さ、凄さにただただ圧倒される。
 それからというもの、私は毎年のようにこのギャザリングに参加するようになり、今年の3月で4回目を数えたわけだが、私が今年もハワイに来れてよかったなぁと思うのはこの瞬間だ。日頃、体面を気にして冷静を振る舞っている自分が、ふと我にかえると、その瞬間フッとんでいたことに気づく。
 ハワイに行ってから、私がダルクに足を運ぶ回数もどんどん増えていった。ちょうどその頃、ケンさんから「ダルクには掃除してくれる人が必要だ。」と言われたこともあって、私は自称“ダルク専属掃除嬢”として毎月のように通っていた。もし今、ケンさんから同じことを言われたとしたら「自立しろォ!」(ケンさんの口癖)と言うところだが、あの頃の私は自分の居場所ができたのが嬉しかったのかもしれない。
 ヒドイ時は毎週のように通っていたこともあった。ある日気がつくとダルクに来ていたということもあった。別に何かをする訳でもなく、ただソファーに座ってメンバーととりとめもない話をするだけなのだが、なぜか居心地がよかった。
 また、年に何度か行われるダルクフォーラムや後援会バザーコンサートといったイベントにもかならず参加していた。時には学校の帰りに制服のままで駆けつけたりして、周囲の人から不思議そうな目で見られることもあった。今、冷静になって思い起こしてみると、ダルクにセーラー服はミスマッチすぎる。
 私が大学生になってからは、さすがに私自身もいろいろと忙しくなり、高校生の頃のようにはダルクへ行かなくなってしまった。最近は専らイベントのみの参加が多くなってしまい、たまにダルクを尋ねたりすると、面識のないメンバーから“お客様”扱いを受けるようになってしまった。またダルクと関わっていると、時にはとても悲しい出来事に遭遇する。高校2年の春一緒にハワイのアラモアナショッピングセンターで買物をしたメンバーも、高校3年の夏、神戸で、「他の二人にはナイショだよ」と言ってパフェをごちそうしてくれたメンバーももうこの世にはいない、それでもやはり、ダルクが私にとって居心地の良い空間であることには変わりはないし、私はダルクへ行くのがやめられない。
 そういえば、今年の3月ハワイへ行った時、こんなことがあった。私のことを高校生の頃から知っているメンバーとワイキキの夜景を眺めながら話をしていた時のことだ。ふとしたことで、私がダルクへ通い始めた頃の話になって、私が彼に、「私がダルクに顔を出すようになった頃のこと覚えてる?」と尋ねると、彼は「覚えてるよ」と言ってから「大きくなったなぁ…」と付けたした。彼の言い方があまりにもおかしかったので、私はその時一緒にいたメンバーと、「なんか、オジンくさーい!」と言って笑ったような気がするけど、確かに、私はある意味ではダルクのおかげでここまで大きくなった(?)と言えるかもしれない。
 私は自分の将来なんて、未だ想像することが出来ないし、何一つ、確信を持って言えることはないけれど、もし一つ確信をもって言えることがあるとしたら、それは10年後も20年後もきっと私はダルクの関係は変わらないだろうなぁということだ。
 こうして、約5年間ダルクを傍から見てきて、たくさんの薬物依存症者たちとの出会いと別れを繰り返してきた。ティーンエイジャーの一番多感な時期に、きっとフツーの人たちの人ではめったにできないだろう体験をしたことは、これからの私の人生に大きな影響を及ぼすにちがいない。  私とダルクを支えてくださった皆様にお礼申し上げます。
(しのぶ)


 

 薬物依存症のボーダーです。
 24才の冬、精神病院に入院中だった僕は、病院のケースワーカーにいつの日か教えてもらった“ダルク”に電話をしました。受話器の向こうから聞こえてくるのは、同じ苦しみをを味わってきた仲間の声でした。
 14才の夏にシンナーを初めて吸い、あれ程楽しみにしていた高校進学をあきらめ中学を卒業した。人間関係になじめず、どこへ行っても2週間、せいぜい1カ月足らずで仕事をやめてました。
 17才の夏に、シンナーがまた始まりました。仕事もせず吸うようになり、来る日も来る日もシンナーに明け暮れてました。19才の夏に初めて精神病院に入院しました。
 24才の時、ダルクに初めて入寮しましたが、3カ月後にスリップ、再び病院に入院になりました。26才、2回目の入寮…しかし、2週間目でスリップ。近くのペンキ屋に夜中に忍び込みシンナーを盗み、ダルクの押し入れに隠していました。捕まったのですが、それでも懲りず毎晩のようにダルクでシンナー吸いました。結局、病院へ入院となりました。19回目の入院を終えてダルクに再び来ました。
 今、アルバイトをしています。薬なしの生活が1年8カ月になろうとしています。去年の3月、ハワイに行ってきました。それから、大好きな車“ミニ・クーパー”も与えられました。会社ではチーフとして活躍する事が出来るようになりました。自分でも不思議です。
 I LOVE 依存者!!支えて下さって頂いている皆様に感謝しています。ありがとう!!!
(ボーダー)


つづく


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