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「一一三号事件・勝田清孝の真実」について
   カトリック名古屋教区 来栖 宥子
勝田死刑囚の素顔知って
   名古屋の主婦 8年半の交流を本に
       (朝日新聞1996年7月18日朝刊より)

「一一三号事件・勝田清孝の真実」について

カトリック名古屋教区 来栖 宥子

 この度、「一一三号事件・勝田清孝の真実」(恒友出版)という本を出しました。それにつきまして、少しく述べさせていただきたく思います。
 私と清孝との交流が始まりましたのは、清孝の二審判決の1988年のことですから、8年以上が経過しています。2年半前に刑が確定し、清孝は、マスコミによって作り上げられた人間像のまま(事件も裁判所の事実認定のまま)、この世との接触を絶ちました。勝田(現在は藤原姓)清孝の真実の人間像を−私の知り得た「清孝」ということですが−明らかにしておきたい、清孝を「殺人鬼」「冷血」の人間像のままには置きたくない、それが小著の目的でございます。全編を清孝からの私宛書簡、獄中手記、裁判書類等によって綴ってゆきました。
 一般の皆様に対しましては、上記のように真実の清孝をお知りいただきたいという目的でございますが、クリスチャンの方々に対しましては、加えて、福音の視点から、これをお読みいただきたいという願いが私にございます。福音(キリスト)を抜きにしては、清孝と私との日は、一日も無かったからでございます。

 拙著の冒頭に、次のような聖句を引用いたしました。

私たちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。(ローマ人への手紙6:6〜7)

 本に書きましたエピソードを一つ、お話させていただきます。
 清孝が私に、「福音書に、『一粒の麦が死ななければ一粒のまま。死ねば多くの実を結ぶ』とあるが、私のような犯罪者は、この意味をどう解したらいいのでしょう」と尋ねたことがありました。私は長い間答えられずにいましたが、ある日面会で清孝が点筆(※)を握り続けたために手にできた豆を見せました。「豆が出来てね」と言って、ガラス越しに白い手を見せたのです。その夜私はやっと、一粒の麦に寄せる返事を清孝に書きました。
 ところで、話が時間的に前後しまして恐縮ですが、清孝は逮捕直後に自ら、8人の殺めを刑事に告白(自供)しています。被害者ご遺族への詫びの第一歩は、事件の真相(自分が殺害したこと)を明らかにする事であると信じて告白したのでした。この告白は恐ろしいことでした。8人を殺害していれば、現在の日本の制度では、間違いなく「死刑」です。更に今一つ、大きな不安−この大罪が自分の口から白日のもとに晒されれば自分の家族が絶望のあまり自殺するのではないかという、大きすぎる不安も彼に重苦しく有りました。しかし煩悶の末、被害者遺族への詫びと自分が真人間に生まれ変わることのために、清孝は恐れと不安に打ち勝ったのでした。

 そのこととの関連で、私は、一粒の麦の返事を書いたのでした。以下のようだったと記憶しています。

被害者ご遺族への詫びのために、罪の一切を告白されたあなた。その時に、古いあなたは死んだのです。(パウロの言うように)罪に対して死んだ。今生きておられるのは新しいあなた。犯罪者の貴方ではない。どうぞ、その豆の出来ている清らかな手から、盲人の皆様のために、多くの楽しみを創り出してあげてください。

 被害者遺族への詫びのために「告白」した魂に惹かれて、私は彼と今日まで来たと思います。最も大切な隣人(被害者遺族)のため、清孝は自らの命を諦めたのだと思います。検事も裁判所も「自供(自首)がなければ、判明しなかった」と認定した事件でした。弱い、意気地なしの清孝が、ただ一つ詫びだけのために、告白しました。あの時に、清孝は自らの古き人を死んだのだ、と私は思います。
 彼の心を占めてきましたのは社会変革(死刑制度撤廃)を目指すことなどではなく、一貫して「詫び」(隣人の痛み・悲しみへの共感)の姿勢でした。
 外部との華やかな交流を断ってきた清孝という死刑囚は、このようなことを思い生きてきました、と私は小著の中で読者の皆様にお話したい考えました。

(※)清孝は控訴審判決のあとから「点訳」をしていますが、点筆を握るため、当時、指に豆が出来ていました。

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勝田死刑囚の素顔知って

名古屋の主婦 8年半の交流を本に

 8人を殺して死刑判決を受けた男が、ただ一人本音をもらす女性がいた。裁判所が「凶悪、冷酷、残忍」と判断した男は、公判中も無表情で、感情を見せたことはなかった。千通を超える手紙のやりとりと205回の面会を通じて、この女性の目に映ったのは「闇(やみ)のように深い人間不信」だという。生きていたい−最高裁の死刑確定から2年半たち、男の心の声を本にまとめた女性は「ようやく、肩の荷下ろせたような気がする」と話す。

「肩の荷下ろせた」

 この女性は、名古屋市に住むカトリック信者の主婦(48)。警察庁指定113号事件に指定された短銃強奪などを始め、1972年から10年余りの間に計8人を殺害したなどとして、33の罪に問われた勝田清孝死刑囚(47)="名古屋拘置所に在監="との8年半にわたる交流を来栖宥子のペンネ−ムで『一一三号事件・勝田清孝の真実』(恒友出版)にまとめ、近く発表する。
 《悲しいことは私は今も、他人様を信じられないでいるのです。人を信じられないなんて、本当に寂しいことですよね(88年2月3日)》
 勝田死刑囚が獄中で書いた手記を読み、女性が初めて手紙を出したのは88年1月。「こんな人間不信のままではいけない、という気持ちからだった」という。
 面会を望む手紙が届き、名古屋拘置所にも足を運んだ。物静かな死刑囚は、女性を「お姉さん」と呼ぶようになった。しかし、突然「絶交」を言い渡すなど態度が急変することも多く、「闘いだった。何度も逃げたいと思った」という。
 名古屋高裁での死刑判決後に出した上告趣意書で、勝田死刑囚は死刑宣告を希望するようなことを書いている。
 《私だって生きていたい。本音です。けど、ご遺族の心中を察すると、少しでも生きさせて欲しい、とは書けなかったのです。虫がよすぎて……(90年5月1日)》
 死刑が確定すると交流できなくなるため、女性は94年1月の確定日、勝田死刑囚を実母の籍に入れて「姉弟」になった。
 一年ほど前から、「私だけが今の清孝を知っていていいのだろうか」と苦しく感じるようになった。「いつ執行されてもおかしくない」と覚悟はしているが、何かの形で「素顔」を残したかった。
 「人間をあったかい目で見られない性格は、変わっていない。でも、ただの殺人鬼ではないことがわかってもらえたら。そして清孝には被害者のことを胸に、一日一日を生きてほしい」と、「姉」は話している。

(朝日新聞1996年7月18日朝刊より)

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